尾崎 一雄(おざき かずお、1889年 - 1983年)は、三重県出身の小説家。先祖代々神官をしていた下曽我村へ移り、千代小学校から県立第二中学校へ進学。早稲田大学を卒業し、文壇デビューした。1937年『暢気眼鏡』で第5回芥川賞受賞。1944年に胃潰瘍の療養のため東京から下曽我に移住し、「虫のいろいろ」などの私小説を書いた。『まぼろしの記』『あの日この日』で野間文芸賞を2度受賞。

経歴

1889年(明治22)12月25日、三重県の宇治山田町(伊勢市)に生まれる(1)(2)。父・八束(やつか)は宇治山田の神宮皇学館に勤務していた(1)(教授をしていた(2))。尾崎家は先祖代々(尾崎の祖父の代まで)、下曽我曽我谷津で暮らし、宗我神社の神官をしていた(1)(2)

5歳のとき(推定1893・明治26年)、いったん下曽我へ移住(1)。その後、再び父と共に宇治山田へ行き、明倫小学校に入学した(1)。その後、沼津の沼津小学校へ転学し、更に千代千代小学校に転学した(1)

1912年(大正元)、県立第二中学校に入学(1)。同級生に、のちに建設大臣となる河野一郎、工学博士となる岩竹松之助、理学博士となる白井俊明、史料編纂官となる相田二郎らがいた(1)。当時は公共交通機関が何もなかったため、中学校まで毎日約8kmを通学し、途中で河野一郎と弟の河野謙三の家の前を通っていた(1)。中学2年生のときに読んだ志賀直哉の「大津順吉」に感動して文学を志した(2)

1917年(大正6)、県立第二中学校を卒業し、1918年(大正7)に法政大学に入学(1)

1920年(大正9)、改めて早稲田の高等学院に入学した(1)。同年9月、同級生と回覧雑誌『極光』を出版し、同校教授の山口剛片上伸らの指導や援助を受けた(1)

1924年(大正13)、早稲田大学文学部国文科に入学し、五十嵐力窪田空穂山口剛らの指導を受けた(1)。同年10月に志賀直哉を訪ね、武者小路実篤九里四郎津田青楓網野菊らと、志賀一家の人々と茸狩りに行くなどした(1)。在学中に同人誌『主張』を出版し、詩集『曼荼羅』を刊行し、いくつか作品を発表した(1)

1927年(昭和2)、早大を卒業(1)

時期不定で「二月の蜜蜂」を『新潮』に発表して文壇デビューした(2)

1933年(昭和8)に「暢気眼鏡」を発表(1)

1937年(昭和12)、単行本化され、砂子屋書房から刊行された『暢気眼鏡』が第5回の芥川賞を受賞(1)

その後、多くの作品を著わした(1)

1944年(昭和19)、胃潰瘍のため東京での生活を切上げ、下曽我に移住(2)。闘病生活をしながら、「虫のいろいろ」「美しい墓地からの眺め」など、身辺のことや自然・環境を題材とした私小説を多く書いた(2)

1954年(昭和29)7月から、産経新聞社長だった水野成夫と、尾崎士郎と3人で雑誌『風報』を発刊し、1962年(昭和37)12月(10月誤か)までに100号を刊行した(同号で廃刊)(1)

1956年(昭和31)10月から1958年(昭和33)9月まで、小田原市教育委員会教育委員を務めた(1)

1958年(昭和33)11月、神奈川文化賞受賞(3)

1962年(昭和37)、『まぼろしの記』で野間文芸賞受賞(1)。同書の出版記念会には、建設大臣となった河野一郎が出席して祝辞を述べた(1)

その後、『あの日この日』で再び野間文芸賞を受賞した(2)。また芸術院会員にもなった(2)

1983年(昭和58)3月31日に83歳で死去した(2)

参考資料

  1. 石井富之助「4 尾崎一雄」神奈川県立図書館『神奈川県の歴史 県下の文学編 上』〈神奈川県立図書館シリーズ8〉神奈川県立図書館、1963、79-81頁
  2. 近田茂芳「私小説家・尾崎一雄と川崎長太郎」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、136-137頁
  3. 40周年記念誌編集委員会『未来へ 私たちの公民館 小田原市中央公民館40周年記念誌』小田原市教育委員会 中央公民館、1990年12月、35頁

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