山崎 秀源(やまざき しゅうげん、1863年 - 1947年)は、明治後期の尋常富水小学校長。同校廃止後は、多古小学校の訓導の立場で、第三分教場を主宰した。また富水青年団を創設し、3期17年にわたり青年団長を務めた。1930年(昭和5)に退職した際に、富水青年団が飯田岡分教場山崎秀源先生頌徳碑を建立した。飯田岡福田寺の生まれだが、寺は継がなかった。1934年7月の足柄騒擾事件では、水源地建設反対運動を主導した事件の主謀者の1人として検挙された。

経歴

文久3年(1863)2月3日、密田秀音の長男として、飯田岡福田寺に生まれる(1)(2)。幼名亀吉(2)。のち秀源と改めた(2)

1883年(明治16)4月、北之窪分教場の教師となった(2)

1889年(明治22)12月、鈴木氏と結婚(2)。しかし鈴木氏を出て、山崎氏と称した(2)。生家の福田寺は継がなかった(1)。夫妻の間には3男3女があったが、長男の真平は早世し、二男の益哉が後を継いだ(2)

1898年(明治31)10月、(尋常)富水小学校長となった(2)。また実業補習学校長を兼務した(2)

1920年(大正9)6月25日に、富水小学校が廃止された後、多古小学校の訓導という立場で、第三分教場を主宰し、校長を扶け同僚や後輩を指導した(2)

また学外では富水青年団を創設し、3期17年にわたり青年団長を務めた(2)

1928年(昭和3:碑銘の写しに「大正3」とあるが「昭和3」かと思われる)5月、神経痛を患って退職したが、加療したところ回復し、周囲の要望があって第三分教場に復帰した(2)

1930年(昭和5)3月に退職(2)。碑銘によると同年10月30日付で、富水青年団が資金を集めて飯田岡分教場山崎秀源先生頌徳碑を建立した(2)

1933年(昭和8)からの水源地建設問題では、建設反対運動を主導し、1934年7月の足柄騒擾事件では事件の主謀者の1人として検挙された(3)

1947年(昭和22)2月5日に死去、享年82(1)。法号:大徳院積善良秀居士(1)葬地不明。

家族

子の山崎益哉、孫の山崎拓也も後に学校長となった(1)

参考資料

  1. 穂坂1984:穂坂正夫「山崎秀源先生頌徳碑」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、74-76頁
  2. 穂坂1984:74-76頁にある、頌徳碑の碑銘の写しによる。
  3. 足柄村騒擾事件」神奈川県警察史編さん委員会 編『神奈川県警察史 中巻』神奈川県警察本部、1972、380-387頁

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