山崎秀源先生頌徳碑(やまざきしゅうげんせんせいしょうとくひ)は、飯田岡出身の、明治後期の尋常富水小学校長・山崎秀源を讃える(2)。碑銘によると、1930年(昭和5)10月30日の建碑(2)富水青年団によって建立された(1)

素材は根府川石で、頌は田中(隆三)文部大臣、文は当時の富水小学校長・森丑太郎(2)

1984年当時、富水小学校の運動場の東北入口の桜の木の下にあった(1)

碑銘

山崎秀源先生頌徳碑

 山崎先生、幼名亀吉、後秀源と改む。密田秀音の長男なり。文久3年2月3日、本村飯田岡に生る。明治22年12月、鈴木氏と婚す。出てて山崎氏を冒し、新たに一家を創む。3男3女あり、長・真平、早く歿し、次・益哉、嗣たり。先生夙に志を育英に立て、明治16年4月、北之窪分教場に教鞭を執られたるを始めとし、明治31年10月富水小学校長なり、また実業補習学校長を兼ね、孜々として日夜誨(おし)へて倦(う)まず。大正9年6月25日、足柄村一校となり、富水校廃せらるるに及び、多古小学校訓導として第三分教場を主宰し、克く校長を扶けて体験の策を献じ、克く同僚後輩を導きて和平進展の途を講ず。又夙に社会風教の振作に留意し、良風美俗の馳致に斡旋し、富水青年団を創設し、熱誠、子弟を誘掖して青春の徒を危機に救い、率先範を垂れて醇厚の俗を郷党に布く。3度17年、青年団長たり。大正(昭和ヵ)3年5月、神経痛を病みて職を退き、加療忽ちにして癒え、元気旧に復す。衆望を容れて再び職に就き、復た第三分教場を主宰す。昭和5年3月路を後進に譲り、断然勇退せらる。先生寿齢古稀に垂(なんな)んとして矍鑠(かくしゃく)壮者を凌ぐものあり。先生は我に在ると否とを問はず、教育即生命なり。門下数千、各その道に励み、国家社会に勇躍貢献す。宣(むべ)なる哉、官婁次(るいじ)之を旌表(せいひょう)し、公私団体の幾度か之を表彰せること。乃ち教育勅語渙発(かんぱつ)40周年を期して僚済(りょうさい)門下胥(あい)謀りて先生の高芳を鳴謝し、碑を校庭に樹てて盛徳を後昆(こうこん)に伝へんとす。頌に日く。


 
先生の状貌、温順玉の如く、親しく之に接すれば、裏に豪爽の気雲霄(うんしょう)を凌轢(りょうれき)するの慨あり。慈眼親しむべきも、缺隙の乗ずべきあらず。これ先生の先生たる所以(ゆえん)。先生経歴の間、校運の隆替、世俗の興廃、時に同じからざるも、40有余年、所未だ嘗(かつ)て寒暄(かんけん)炎涼の訕(そしり)あらず。平等を会して差別に処し、差別に即して平等を喪はず、是れ先生の先生たる所以。先生の学篤実、先生の識高邁、而して其の人となりや恬淡(てんたん)無欲、正醇弘毅、洵(まこと)に一世の宝なり。嗚呼、先生は至誠の権化、郷党の木鐸(ぼくたく)。多幸なれ先生。先生の風骨は山も高からず、先生の操守は雪も厲(はげ)しからず。嗚呼、先生は皇国の支柱。先生は神州の生命。永久に活くる先生。
  昭和5年10月30日
   門下生 従六位勲六等森丑太郎謹撰並書

資料:(2) 注:漢数字は英数字になおし、句読点を補った。

建碑のきっかけ

碑銘によると、1930年(昭和5)3月に山崎秀源が退職したことと、教育勅語渙発(発表、1890・明治23)40周年を記念して建てられた。

移転

石碑は飯田岡分教場の正面に立てられてあったが、戦後、富水小学校の運動場の東北入口の桜の木の下に移された(1)

参考資料

  1. 穂坂1984:穂坂正夫「山崎秀源先生頌徳碑」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、74-76頁
  2. 穂坂1984:74-76頁にある、頌徳碑の碑銘の写しによる。