悦叟宗忻(えっそうしゅうきん(3)、明応6年・1497 - 天正3年・1575)は、曹洞宗僧侶北条氏康とその内室(瑞渓院)の依頼を受けて興徳寺の中興開基となり、また栢山善栄寺を再興した。

経歴

明応6年(1497)1月1日生まれ(3)

『曹洞宗人名辞典』は、俗姓および生国は不詳、としている(3)。『風土記稿』にある善栄寺の伝は、沼田城主・沼田左衛門尉の男子で、9歳のとき、塚原長泉院に入って受戒した、としている(1)

大永5年(1525)に北条氏康とその室(瑞渓院)の要請により、小田原府内の字八段畑(栄町)から谷津村(城山)へ移された興徳寺(現在は板橋にある)の中興開山となった(1)(2)(3)

5年後(1530・享禄3)、章山周文の指示により、相模国(南足柄市塚原)長泉院へ移った(3)

天文3年(1534)2月27日、長泉院を退き、天渓の推挙で相模国(伊勢原市日向)石雲寺の住持となった(3)

天文11年(1542)1月、再び興徳寺の住職となった(3)。次いで最乗寺の大慈院に輪住した(輪番で住職を務めた)(3)

天文20年(1551)8月15日、後奈良院から紫衣の勅許を受け、同21年(1552)11月15日に「透源大通禅師」の号を受けた(1)(2)(3)このときの2通の綸旨は栢山・善栄寺の寺宝として伝えられていたが、綸旨を受けたのは、興福寺に在住していた頃のこと(1)(2)

  • 紫衣の綸旨の写し:大雲山興徳禅寺宗忻上人、着紫衣、紹列仏法、可被致天下安泰御祈祷、者天気如此仍執達如件、天文廿年(1551)八月十五日、永平寺住持悦叟和尚、右大弁[華押]、(2)
  • 禅師号の綸旨の写し:敕大雲漠々簇慈雲、興徳洪々超先徳、宗忻和尚者、汲永平末流、酒甘露於八州、紹大雄後胤、振道風於一国、禅徒為之輻輳、檀信尊之帰崇、憑焉遥仰重禁欠、遠拝望紫泥特賜透源大通禅師、天文廿一年壬子(1552)暦十一月十五日、(2)

天文23年(1554)ないし天文24年(1555)に、氏康とその室の依頼により栢山・善栄寺を再興した(1)(3)

永禄12年(1569)、「門参の公案三則」を南峰宗柱に付与した(3)

天正3年(1575)6月17日に死去、享年80(1)(2)(3)

参考資料

  1. 『風土記稿』栢山村 善栄寺
  2. 『風土記稿』板橋村 興徳寺
  3. 稲村坦元『曹洞宗人名辞典』国書刊行会、1977、p.130

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