日清戦争(にっしんせんそう、1894年 - 1895年)

沿革

開戦

1894年(明治27)3月に朝鮮王国で内乱が発生した(2)。朝鮮王国は宗主国である清国に派兵・鎮圧を要請し、6月に清が出兵した(2)。日本はこれに対抗して同月12日に混成1個旅団(平時約2千人、戦時編成は3-4倍に増強可能)を出兵させ(2)、これが両国の対決に発展して(2)、8月1日に日本は清に宣戦布告した(1)(2)

小田原町からは80人が出征し、出征の際には歓送のために動員された小学生が、国旗を振り、軍歌を歌った(2)

「慰労」「慰問」の奨励

足柄下郡中山信明郡長は、郡下各町村長に対して、「慰労」のために策を講ずるよう通達を発し(2)、これに応じて

  • 小田原町で、有志が梅干200樽を在韓の軍隊に献納
  • 芦子村で、軍馬の徴発、梅干・蜜柑など慰問品の献納(の割当)
  • 幸町の間島国三郎医師が従軍家族に無料の治療を申出
  • 大久保子爵が、召集に応じた者に慰労金を1円ずつ送付

といった活動が行われた(2)

戦局

戦局は緒戦から日本軍の勝利が続き、1894年9月に大本営が広島に移され、同年10月の帝国議会も広島で開かれて、反対の多かった臨時軍事費も政府提案通りに可決された(2)

同年11月に日本軍が旅順大連を占領(2)

1895年(明治28)3月、日本軍は遼東半島を制圧、台湾へ侵攻した(2)

同月30日に休戦協定が調印され、翌4月17日、日清講和条約(下関条約)調印(1)(2)。清国は

  • 朝鮮国の独立の承認
  • 遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲
  • 清国から日本へ賠償金として2億両(ティール、日本の通貨で約3.1億円)の支払い
  • 沙市重慶蘇州杭州の開港

などを認めたが、直後からのロシア・ドイツ・フランスの反対により、日本は遼東半島の割譲を放棄し、返還の代償として約5千万円の支払いを受けることになった(2)

祝賀行事

1895年(明治28)7月に、国府津駅前で、足柄下郡の各町村が事務所を構えて、軍用列車で凱旋する兵士の祝賀式典を行った(2)。また郡長の主催で、鴎盟館で参加者5千人を想定した「足柄下郡軍隊凱旋歓迎祝捷会」が開催された(2)。翌1896年春まで、各町村でも凱旋歓迎の式典が挙行された(2)

戦死者

小田原町では、出征者80人のうち戦死者は1人だった(2)。全国で動員兵力24万人余に対して10,033人(5.5%)が戦死したのに比して戦死者は少なく、戦争の悲惨さもあまり前面に出なかった(2)

学校教育への影響

日清戦争を期に、学校教育の中にも国力を増強するための軍事的な内容が付け加えられるようになり、特に高等科の男子生徒に対しては、軍事演習が実施されるなどした(2)

参考資料

  1. 「年表」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、148-151頁
  2. 宮坂博邦「日清戦争と小田原」『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001、259-262頁、I 近代 第8章 第1節 日清・日露戦争期の小田原の社会状況

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