日露戦争(にちろせんそう、1904年 - 1905年)
沿革
開戦までの経緯
1895年(明治28)4月17日に日清戦争の下関講和条約が調印された後、ロシア・ドイツ・フランスが反対したことにより、日本は遼東半島の割譲を放棄し(いわゆる三国干渉)、返還の代償金として清国から日本へ5千万円が支払われた(2)。
1900年(明治33)、日本は列強8ヶ国と連合して清国の義和団事件に介入、鎮圧して賠償金を獲得した(北清事変)(2)。
この頃、ロシアは遼東半島を租借地として旅順に軍港と要塞を造築した(2)。
1902年(明治35)、日英同盟締結(2)。日本は外債による戦費調達の見通しを得て、ロシアとの開戦の準備を始めた(2)。
開戦
1904年(明治37)2月、開戦の直前に、陸・海軍の充員召集令が全国の市町村に伝達された(2)。同月5日夜から翌6日早朝にかけて、小田原町では海軍へ5人、近衛第1・第7師団へ26人の計31人の令状が4回にわたって伝達され、翌7日には国府津駅に足柄下郡の各町村から召集された出征兵士とそれを見送る人々で総勢3-4千人が集まった(『片岡日記』)(2)。
同月10日、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が勃発した(1)(2)。
それ以降も、町役場は「軍国事務」に追われ、戦局の推移により、伝達内容も加重されていき、国民的な総力戦の様相を呈した(2)。
終戦までの経緯
1905年(明治38)1月、旅順陥落(2)。
同年3月、奉天占領(2)。
同年8月、アメリカ・ポーツマスで講和会議に入り、9月、日露講和条約調印(1)(2)。
排斥運動
開戦後、「ヤソ教会を焼払え、外国人を打殺せ」といった歌が唱われ、キリスト教会への投石事件が相次いだ(『小田原十字町教会百年史』)(2)。特にロシア正教の小田原ハリストス正教会の信徒への非難や排斥が激しかった(2)。
足柄下郡長から郡下の各町村へは、小学校での反ロシア的な歌謡・語句の使用禁止、宣教師・外国新聞通信員の処遇への注意の通達が発せられた(2)。
祝賀行事の繰返し
同年5月5日には、鴨緑江北岸の九連城陥落を祝して、小田原で最初の提灯行列が行われた(2)。大久保神社に参集して、小田原町内の各所を廻り、松原神社で散会するまで、数十回の万歳三唱を繰り返した(2)。
以後、拠点陥落の度に、祝賀行事が繰り返された(2)。
1905年(明治38)1月の「旅順降伏祝捷(祝勝)」の際は、小田原電気鉄道がイルミネーションで飾られた電車を運行した(2)。
講和条約締結後、軍隊の凱旋輸送が開始されると、国府津駅に凱旋門が建てられ、凱旋した兵士を出迎えるために国府津駅まで小学生がたびたび動員された(2)。
凱旋祝賀の催しは、小田原町の場合、1906年(明治39)5月まで続けられた(2)。
戦死者の増加
旅順攻撃の際など、数万余の戦死者が続出することが増え、補充のために新たな兵員の召集が繰り返された(2)。出征兵士を見送ると同時に、戦死者の遺骨が帰郷することも増えた(2)。
終戦までに出征した兵士は、小田原町からは349人で(『明治小田原町誌』)、このうち21人が戦死した(2)。
出征兵士・遺族の支援活動
1903年頃から足柄下郡の各町村で、出征兵士やその遺家族を援護する団体が結成された(2)。これら援護団体の活動費用は寄付金で賄われたが、その主な財源は強制に近い戸別の割当だった(2)。
また各宗派の仏教寺院団やキリスト教団も義援金を集め、戦地へ慰問使を派遣するなどした(2)。
軍友会・恤兵会・軍人援護会・報国義会
出征兵士への餞別、遺族の扶助、復員慰労、葬祭料、見舞金の提供などの活動を行い、1910年代に設立される在郷軍人会の基礎ともなった(2)。
出征軍人家族援護会
出征した軍人の家族の生活援護など活動をした(2)。
戦時婦人会
慰問袋の募集などの活動をし、1910年代の、愛国婦人会や赤十字支社の設立にも影響を及ぼした(2)。
葬儀の増加
1904年7月に郡役所から虚飾な葬儀をやめるよう勧告が出されたが、戦死者の葬儀は盛大に行われることがあり、1905年になると戦死者の公報が続いたため、葬儀も度々挙行され、それが講和条約の調印後まで続いた(2)。
町村財政の破綻
戦争を支えてきた町村財政は破綻状態に陥り、戦後には滞納整理策や増税策が推進された(2)。それに伴い、町村民の生活苦が問題となってきた(2)。
参考資料
- 「年表」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、148-151頁
- 宮坂博邦「日露戦争と小田原の社会」『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001、262-266頁、I 近代 第8章 第1節 日清・日露戦争期の小田原の社会状況