星崎 定五郎(ほしざき さだごろう、1879年 - 1966年)は、矢作出身の実業家。日系アメリカ人1世。1899年に草柳竹次郎らと共に渡米し、カリフォルニア州各地で農作業に従事。1905年にロサンゼルスで食料品・雑貨品を扱う東海商会の店舗を開業、以後、業績を拡大した。1921年に日本からの輸入品を扱う共同貿易(株)を設立して社長に就任。1930年頃、ロサンゼルスの中心街に多くの土地・建物を所有した。
1940年に北京飯店を買収。戦時中のマンザナール収容所での抑留生活を経て、戦後も事業活動を継続。1955年にアメリカに帰化し、経営を引退。翌1956年に日本に移住し、熱海で隠棲した。
1923年の関東大震災で被害を受けた矢作の浅間神社や春光院の修築や再建のために寄附をし、1958年に小田原市に5万米ドルを寄附、星崎記念館が建設されたことで知られる。
経歴
生い立ち
1879年(明治12)2月1日、足柄下郡矢作村(矢作)で、元小田原藩主・大久保家の小作農をしていた父・鉄五郎と母・ヒサ(小八幡の鈴木氏の娘)の子(長男)として生まれた(1)(2)(7:3,6-7,11)。
1885年(明治18)4月、千代小学校に入学(7:12,14)。
1889年(明治22)3月、同小学校を首席で卒業(7:20-21)。同年、高等小学校へ進学したが(7:22-23)、弟妹が増えて家計が逼迫してきたため、1年ほどで中退し、父の耕作を手伝うようになった(7:24)。
15-16歳頃から、他所の田畑の耕作や、冬の箱根湯本・台の茶屋の裏山での薪取り、農閑期、多古の河原での砂利運び、車での荷運びなどの雇われ仕事もするようになった(7:25-27)。仕事をしながら、友人たちと成田の成願寺の住職・三輪円龍が開いていた夜学に通って講義を聴いた(7:28-29)。
米国移住
1897年(明治30)頃、近所に婿入りした、渡米歴のある星崎和吉から米国の事情を聞いて、矢作の青年の間で渡米熱が高まり(7:32-35)、村の青年のほとんどが和吉の斡旋で3班に分かれて渡米した(7:36)。星崎は、草柳竹次郎や鴨宮の神谷増太郎らと同じ第2班に加わり(2)(7:36)、1899年(明治32)6月27日に横浜からノルウェーの貨物船タイラー号に乗船し、同年8月1日にサンフランシスコに到着した(2)(7:36-40,45)。
- 渡米の時期について、(1)は1900年(明治33)春としている。
到着後、教会の斡旋で小作農の下請けのような職に就くことになり、オークランド経由で、ヴァカビイル(Vacaville)へ移った(7:48-50)。ジム・エートが経営する農園(果樹園)で、20人ほどの日本人が一緒に雇われ、直接の雇用者である和歌山県人の監督の下で果物をもぐ仕事をした(7:52-53)。賃金は1日1ドルで食費25セントと監督のコミッション25セントが差し引かれ(手取り50セント)、1ヵ月分がまとめて支給された(7:52-53,56)。
果樹園の仕事は同年11月で終わり、冬場は山中で木を伐り薪を作る仕事をした(7:53)。翌年(1900)春からサンノゼのヒューム果樹園で1日の手取り75セントでプルーンを拾い集めて干物にする仕事をした(7:58-59)。
同年夏から、キャストルビイル(Castroville)の150エーカー(約60.7ha)ある砂糖大根(sugar beet)の農園で、砂糖大根を間引く仕事をした(7:60-61)。第3班で渡米した弟の兵太郞も同じ農園で働いた(7:60-62)。同年の冬は、モントレーの海岸近くの山中で、蓮正寺出身の古沢鉄五郎と木こり・薪作りの仕事をしたが、賃金は安かった(7:62-63)。
1901年秋、第1班で渡米し、ロサンゼルスの東へ約93kmのリバーサイドで食料品の小売店を経営しながら人材斡旋もしていた星崎繁次郎の誘いを受けて、弟・兵太郎と共に同地へ移住(7:63-64)。農園でみかんもぎの仕事をしながら、店の営業を手伝った(7:64-65)。
この間、星崎は毎月ないし隔月で25ドルずつ日本へ送金しており、暮らし向きもよくなったのではないかと考え、1904年(明治37)に日本に帰国した(1)(7:66-68)。
東海商会
帰国してみると、送金は借金の返済や土地の買い戻しに充てられて、あまり残っておらず、弟妹も増えていたので家計は苦しい状況が続いていた(7:69)。酒匂川の工事現場で賃持かつぎの仕事をしたが、日給は25銭だった(7:69)。
そこで再渡米を決意し、食料品・雑貨品店を経営する計画で、その頃、日露戦争の終結により日本国内に安価で大量に出回っていた軍需品の不合格品の缶詰や食料品を横浜で買い込むなど仕入れを進め、以後の商品の補給について母方の伯父・鈴木政五郎の援助を頼んだ(7:70-71)。
1905年(明治38)9月にアメリカ船コレア号で再渡米し、ロサンゼルスに到着(7:70-71)。税関で仕入品の関税を支払えなかったため、税関の倉庫に仕入品を預け、ジャクソン街(Jackson St.)の借家で暮らした(7:71-72)。同地で、鴨宮出身の星崎金次郎、金次郎の従弟で曽我谷津出身の神保政太郎と3人で、資本金2,000ドルで、サンペドロ街(San Pedro St.)124番地に食料雑貨商「東海商会」を設立することになった(1)(7:73-74)。しかし開店準備をしている間に神保の父が死去し、2人は日本に帰国した(7:73-74)。しかし星崎は予定通り「東海商会」の営業を開始した(7:73-75)。店員数名を雇用し、食料品・雑貨・野菜・果物等を販売した(1)。業績好調で、販路を拡大した(1)。
1906年(明治39)初に、商品の仕入れと、一緒に働いてくれる妻を探すために日本に帰国(7:75)。すぐに米国へ戻ったが、仕入品の売れ行きは好調だった(7:75)。同年4月18日に発生したサンフランシスコ大地震の影響で、多くの日系人がサンフランシスコから南カリフォルニアへ移住し、ロサンゼルスの日本人人口も急増したため、物価は高騰し、商品需要も逼迫して、星崎の店の経営は順調だった(7:77-78)。また日本で母が縁談を取りまとめ、同年3月31日に吉田島村・井上徳次郎の女・花子と入籍(1)(7:75-76)。弟・兵太郞は高山イソと結婚して同家へ婿入りすることになり、同年11月に花子とイソが渡米して、日本料理店「梅花亭」で2組の結婚披露宴が行われた(1)(7:78)。
- 花子(ハナ)は、露木1915(1)は長女としているが、石井1959(7:76,85)は二女(次女)としている。
1908年(明治41)に創立された南加(南カリフォルニア)神奈川県人会の初代会長に就任(7:82)。
1911年(明治44)、店舗が手狭になってきたため、売りに出されていたロサンゼルスの東第1街(East 1st St.)313番地の店舗を購入、東海商会を移転した(1)(7:82-83)。サンペドロ街の家は住居に充てた(7:82)。同年、グレンドラー(Glendora)に5エーカーの土地を取得して、スイートピーの種を蒔き、1斤25セントで販売した(7:84)。
1913年(大正2)長女・智恵子が誕生した(1)(7:84)。
共同貿易
この頃、同業者15-16軒と、日本への仕入の注文を相談したり、商品の分配をしたりする輸入共同組合を組織し、日曜日に会合をしていたので日曜組合と称した(7:84)。
1915年(大正4)には第1次世界大戦の勃発によって物価が高騰し、東海商会の業績も拡大した(7:85)。
1920年(大正9)、5万ドルを投じてロサンゼルスの東第1街801-803番地の土地と家屋を取得(7:87)。
1921年(大正10)に同系統の商品を取扱っていた遠分、服部、菅野、小島、肥後屋などの有力商店と協議して、東海商会も加わって資本金10万ドルの共同貿易株式会社(Mutual Trading Co.)を設立(2)(7:88)。本社を東第1街803番に置き、自身が社長となった(7:88)。共同貿易は、日本の食材を他の日系人と共同で日本から米国へ輸入するための会社だった(4)。
- 共同貿易の設立年は、露木1934(2)によると1924年(大正13)頃、Kanai2013(4)によると1926年。
1923年(大正12)9月に関東大震災が起き、一時的に日本からの輸入が途絶え、在庫品が高騰したことで、設立されたばかりの共同貿易の経営は安定した(7:89-91)。
同年頃、メキシコの綱島領事からロサンゼルスの若杉領事へ、メキシコシティ(Mexico City)近くのナイレタ州テイペック(ナヤリト州テピク:Tepic, Nayarit)に16.5万エーカーの土地があって売りに出されているとの連絡があり、定五郎ら10名が現地を視察した(7:92-97)。好条件だったため契約が成立しそうだったが、この頃、カリフォルニアでは排日の気運が高まっており、ロサンゼルスの反対派の圧力を受けて地主が翻意し、契約は不成立に終った(7:92-97)。
1928年(昭和3)にロサンゼルスの南マーシユース街(South Mathews St.)133番地に土地と家屋を取得し(7:99)、1934年当時、同所に居住していた(2)。この頃には、1男4女の父親となっていた(2)。また1929年-1930年にかけての不景気の時代に、ロサンゼルスの中心街にあった東洋ホテルその他の土地・建物を入手した(7:99)。
帰郷と事業の承継
1931年(昭和6)8月、草柳竹次郎とそれぞれの家族全員を連れて矢作へ帰郷(7:101-102)。草柳と共に、関東大震災の被害を受けていた矢作の春光院に山門と安楽橋の改築費として1千余円、浅間神社に神輿殿と狛犬の新設費として5百余円をそれぞれ寄附し、下府中小学校へ校門新築、理科室および機械標本類の購入費として1千円を寄附した(7:103-104)。また春光院の世話人から本堂と庫裡の再建計画への支援を乞われ、父・鉄五郎の存命中の再建を条件に、総工費16,800円のうち1万円をアメリカから送金(7:104)。春光院の本堂と庫裡は、1933年(昭和8)に再建された(7:104)。
1934年(昭和9)頃の共同貿易の年間の輸入高は25万ドル、売上高は50万ドルに達していた(2)。
1936年(昭和11)4月、長女・智恵子がいとこの川瀬勝五郎の長男・勝と結婚(7:109)。星崎は婿取りをして東海商会の経営を譲るつもりだったが、勝は川瀬家を継ぎ、経営していた農園の仕事を続けることを希望したため、星崎はしばらく東海商会と共同貿易の経営を続けた(7:106-109)。
1940年(昭和15)、石井忠平から中国・北京の北京飯店が売りに出されているとの情報を得、川北弥三郎、倉田吉太郎らと共同して買収に名乗りをあげ、20万ドルでの買収に成功した(7:110-111)。星崎は自身が会長となり、石井忠平を社長として経営体制を整え、北京飯店は太平洋戦争末期まで営業を継続したが、日本の敗戦が近付くと経営不能となり、終戦後、中国に接収された(7:111)。
1940年に帰米の後、東海商会の経営を長女・智恵子夫妻に任せて自身は共同貿易の経営に専念した(7:112)。
1941年3月に、故郷の父・鉄五郎が死去した(7:121)。
収容所生活
1941年12月7日に太平洋戦争が勃発すると、在米の日本人会、日本語学園、軍友団、新聞社、武徳会、海軍協会などの機関の主要メンバーの日系人は、警察に検挙・連行された(7:114-115)。
日系市民協会の指導者たちは委員会を組織して当局を援助することを決め、ボウロン(Bowron)・ロサンゼルス市長ら国防関係の各機関代表に対して「率直に日本と縁を切ること」を表明した(7:116)。当時の全米日系市民協会(Japanese American Citizens League; JACL)長・城戸三郎が「日系人2世は米国市民としての義務を果たす」と表明するなど、日系人2世の団体が次々に米国に全面的に協力するとの立場を表明し、1世の団体もこれに追随した(7:117)。
しかし、緒戦の日本軍の勝利に伴って一般アメリカ人の日系人に対する敵愾心は高まり、日系1世を対象とした資金凍結や禁足令、制限区域の設定などが行われ、1942年1月29日に指定地区立退命令が発出され、同年2月19日の大統領令によって強制立退が行われることになった(7:117-118)。
星崎は、同年3月21日にメリノール教会の世話で転住申込の手続きを行い、マンザナール収容所に抑留されることになった(7:118)。住宅やアパートは貸しに出し、店舗はアメリカ人の支配人に委託して店賃の積立を依頼し、酒や缶詰類、食料品を貯蔵した倉庫の管理も依頼しておいた(7:118)。
- Kanai2013は、リトル・トーキョーの多くの商人は事業や財産を投げ売りすることになったが、共同貿易は、会社があった第1街(First Street)のメリノール・カトリック学校(Maryknoll Catholic School)が、日本人の生徒が多かったこともあって、共同貿易の財産の保管を申し出て財産を預かってくれたため、収容所から戻ってきたとき、いち早く事業を再開することが出来た、としている(4)。
- 石井1959は、収容所での生活は不自由で不愉快だったが、生活用品の配給などは支障なく行われており、それまで生活に追われていた日系1世にとっては、強制的な休養の機会になった、としている(7:119-120)。また抑留者の扱いは概して寛大で、戦争後半には、収容所から徴兵に応じた日系人2世の部隊がシシリー島などのイタリア戦線で活躍したことなどもあり、2世に対する同情的な気運も高まったとしている(7:121,123)。
帰還後
1944年の12月かそれ以前に※、転住所生活を解除され、ロサンゼルスへ帰還(7:122-125)。財産は保全されていて、不在の間も店舗の経営はうまくいっており、倉庫の商品の保管状況もよかった(7:124)。共同貿易の事業を再開すると、好況により、倉庫の商品はすぐに売り切れ、経営は順調で、日本人街も急速に復興した(7:124-125)。
- ※石井1959(7:122-123)には、1945年8月15日の敗戦後、同年12月に日系人全部の帰還命令が発せられ、しかし定五郎は戦争終結と同時にロサンゼルスへ帰ることができた旨が記されているが、同(7:125)には、帰還した年があわただしく暮れて、1945年を迎えたとあるので、1944年中に帰還していたと思われる。
1945年1月に妻・ハナが死去(7:126-129)。
1948年8月、貿易使節として、戦後初めて日本を訪問(7:130)。バイヤーとして東京・横浜・阪神地方をまわり、神戸の西本貿易(株)ほか数社と食料品・雑貨の契約を取り決めた(7:130-131)。また東京に共同貿易(株)を設立し、北京から日本に引揚げていた石井忠平をその社長とした(7:131)。また矢作の実家の母・ヒサと会い、小学校の生徒全員に鉛筆を贈り、矢作の人々に砂糖を贈った(7:130)。
- 東京共同貿易(株)の会社概要によると、同社の設立は1947年10月で、星崎の訪日の前年のこと。
父と妻・ハナの没後、アメリカの東本願寺別院その他の寺院に何度か寄進をした(7:132)。
1950年、草柳某ほか4名と、矢作の春光院に梵鐘再鋳費として27万円を寄進(7:132)。
1952年に母・ヒサが死去(7:132)。翌1953年に日本を訪問し、墓参した(7:132)。母の死後、春光院の山内修築費として10万円を寄進した(7:132)。
日本での隠棲
1955年、国籍をアメリカに移した(7:133)。共同貿易の社長を石井忠平に譲り、隠退(7:133)。弟妹のいる日本で暮らすことにし、1956年4月に日本に移住(7:134)。熱海市西山600番地に土地家屋を入手し、鈴木ていに身の回りの世話を頼んで隠棲した(7:134)。
1957年7月、星崎の寄附金20万円により、矢作の亀興院の堂前の広場に遊具が設置され、矢作児童遊園地が開園(7:135-136)。
1958年5月、子供が勉強するための施設の建設資金として小田原市に5万米ドルを寄附(7:137-139)。市は寄付金1,800万円に市費1,285万円と県補助金500万円を合わせ、総額3,585万円で児童福祉センター・図書館(星崎記念館)の建設に着工した(7:139-140)。同年8月、市への寄附の件により紺綬褒章を受賞、日本図書館協会からも感謝状を受けた(7:口絵写真,139)。
同年末、ロサンゼルスへ行き、翌1959年1月に鈴木ていと再婚(7:140)。同月中に熱海に戻った(7:140)。
1966年に死去。墓は東ロサンゼルスのカルバリー共同墓地(Calvary Cemetery)にある(3)。
家族
- 子:長女:智恵子(1913年11月25日 - 没年不詳)は(1)(7:84)、1936年(昭和11)に星崎のいとこの川瀬勝五郎の長男で、渡米して農園を経営していた川瀬勝と結婚した(7:106-109)。戦後、東海商会改めラッキー・グロッサリー(Lucky Grocery)を経営(7:133)。主に白人を対象に、食料品・雑貨を販売した(7:133)。
- 子:二女:美枝子は、1940年頃、東京の双葉高等女学校を卒業して米国へ戻った(7:111)。石井忠平の子・石井忠と結婚した(7:110)。戦後、酒類飲料店を経営(7:99,133)。
- 子:長男:孝太郎(Kō: Kotaro Robert Hoshizaki, 1923 - 2020)は、ロサンゼルスで暮らし、土地家屋売買貸借業を行う家族経営の星崎投資会社(Hoshizaki Investment Company)の社長を60年以上、共同貿易の役員を50年以上務めた(5)(7:133)。アイリーン・フサコ・イノウエ(Irene Fusako Inouye, - 2017)と結婚して、6人の子供とその配偶者、8人の孫があった(5)。
- 子:三女:トミ(7:99,133)
- 子:四女:タマ(7:99,133)
- 弟:二男:高山兵太郎(1882 - 没年不詳)は、星崎が渡米した後、第3班に加わって1900年頃に渡米(7:11,36,60-61,133,134)。1906年に高山イソと結婚し、同家に婿入りした(7:78)。星崎が経営していた東海商会の経営を手伝っていた(7:99)。
- 妹:二女:ハル(1886 - 没年不詳)(7:15)は、横浜へ嫁いだが夫と死別し、商売をしていたが、1931年頃、星崎に乞われて、矢作の父・鉄五郎の家を継いだ(7:104-105,134)。
- 妹:三女:富田ヨネ(1887 - 没年不詳、戦後、千代在住)(7:20,134)
- 妹:四女:ツナ(1889 - 没年不詳)(7:23,134)。
- 弟:三男:敬次郎(Keijiro, 1895 - 没年不詳)は(7:69)、日本で早稲田大学を卒業した後、(3ヵ月ほど旧満洲の鉱業会社で働いたが辞職し、)1915年頃(6)ないし1919年(7:99)に、定五郎の仕事を手伝うため渡米した(6)(7:133)。1932年に独立してハリウッド地区(Hollywood)のバージル街(Virgil ave.)で食料品店・フジヤ(Fujiya)を開店(6)(7:99)。戦後は植木の栽培事業に参入し、「バージル植木園」を経営(6)(7:133)。戦争中、荒廃していた邸宅や庭園の修復の需要があって、事業は好調だった(6)。謡曲・喜多流の師範もしていた(7:133)。
- 妹:シン(7:134)。
- 妹:飯山コヨは十字2丁目(南町)の河内屋菓子舗へ嫁いだ(7:134)。
- 妹:佐藤スエ子は緑1丁目(栄町)の玩具商・旭屋へ嫁いだ(7:134)。
- 妹:八女:石岡キンは東京へ嫁いだ(7:69,134)。
- 妹:松本ユキ子は二宮町へ嫁いだ(7:134)。
参考資料
- 「星崎定五郎氏」露木惣蔵『在米神奈川県人』在米神奈川県人社、1915・大正4、145頁
- 「星崎定五郎氏」露木惣蔵『昭和聖代在米神奈川県人』在米神奈川県人社、1934・昭和9、134頁
- ”Sadagoro Hoshizaki,” FInd a Grave, 更新時期不明
- Noritoshi Kanai(述)Al-Jamie(記), "The Man Who Brought Sushi to America," tokyojournal, May 15, 2013.
- "Kotaro Robert Hoshizaki," Rafu Shimpo, July 28, 2020.
- Takashi Hoshizaki(述)Tom Ikeda・Jim Gatewood(記)"Takashi Hoshizaki Interview," Densho Digital Repository, July 28, 2010.(Takashi Hoshizaki(星崎敬)は星崎の甥、敬次郎の子)
-
石井1959:星崎定五郎(述)石井富之助(編著)『移民の先駆者 星崎定五郎』星崎定五郎翁伝記刊行会、1959
- 小田原市立図書館長・石井富之助、矢作の星崎本家・星崎茂、春光院の石川教寿が、1959年頃、熱海の西山で暮らしていた星崎定五郎を訪問して作成した口述筆記などをもとにしてまとめた伝記(同書 pp.143-144「あとがき」)。
関連資料
- 東郷実『人口問題と海外発展』日本青年館、1936・昭和11
- 入江寅次『邦人海外発展史 上巻』海外邦人史料会、1936・昭和11
- 松本本光『復興線上に躍る帰還同胞』羅府書店、1949(奥泉栄三郎(監修)『初期在北米日本人の記録 第29冊』文生書院、2006)
リンク
-
小田原市図書館管理係「星崎定五郎」小田原市公式ウェブサイト、最終更新2011年4月1日
- 『移民の先駆者 星崎定五郎』(の本文)をほぼ原文のまま転載(同ウェブサイトの付注による)
-
Mutual Trading Co.(共同貿易)ウェブサイト
- 東京共同貿易(株)(Tokyo Mutual Trading)は、東京を拠点とする共同貿易の輸出部門(4)。
Pages tagged “星崎定五郎”