本久寺 本堂本久寺(ほんきゅうじ)、法光山は、中町3丁目にある日蓮宗寺院。本尊は三宝の諸尊祖師像。開山は日満(元応元年・1319没)、開基は法久(法名:法久寺殿蓮秀一儀)、中興は日澄(永正7年・1510、駿府・安立寺にて死去)。江戸時代には京都六条・本圀寺の末寺だった。(1)

沿革

本久寺 入り口元亀2年(1571)4月に住僧が記した伝記と本久寺所蔵の開基の系図によると、昔、小田原の住人に武藤治部少輔清康という人がいた。のち入道して法久禅門と称した。(1)

日蓮が宗法弘通の途中、法久の邸宅に寓居したことがあり、法久は日蓮に帰依して宅地に小堂を造営して法華堂と称し、駿州豊後房・日満を招いて、ときどき法華宗の講義を受けていた。

日満が佐渡に赴任した後は日善(日朝の上足で、大法房といった)を堂主とした。その後、日善が大堂建立を発願したため、法久は東西60間(約109m)・南北100間(約182m)余の田園を寄進。弘安5年(1282)9月に日朗を導師として(開眼)供養を行った。(1)

法久は正応2年(1289)3月2日に死去し、五七日に法華堂を改めて法久寺と号した。それから50余年後に本寺の山寺号(六光山本圀寺)を採って、「法久」の2字と組合わせ、現在の山寺号(法光山本久寺)とした。(1)

  • このとき、本山の日伝の命により、六条門末の僧録(僧官)となり、六条の別号を許されたという。

その後、寛正年間(1460-1466)に兵火に罹り、堂宇が破却されたため、明応年間(1492-1501)に本圀寺12世・日了が伊豆国・韮山本立寺の住僧・日澄を本久寺の6世に就任させ、中島村の空地に堂宇を再建してようやく復旧を成し遂げたという(1)

境内

稲荷神社

境内に稲荷神社があった(1)(妙見堂の写真左手にみえる)

妙見堂

妙見堂境内の妙見堂は、開基・武藤清康の守り本尊・北辰妙見大菩薩を勧請した御堂(2)

鐘楼

鐘楼の鐘は享保8年(1723)9月の鋳造だった(1)。2022年現在、本堂の前に鐘楼の基礎が残っている(本堂の写真手前)。

桜の木

境内に桜の木があり、弁の中に旗の形をしたものがあったため、「旗桜」と呼ばれていた。古木は周囲が3尺5寸(約106cm)あったが、文化年間(1804-1818)に災害に遭い、『風土記稿』のときには糵生(ひこばえ)になっていた。(1)

法泉坊

子院の法泉坊には三十番神の画像が安置されてあった(1)

寺紋

寺紋は、本堂に日蓮宗橘/三つ柏、妙見堂に七曜(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 境内の石碑「法光山縁起」(2019年調査)

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