本多信親(ほんだのぶちか、? - 天正15年(1587)4月2日)は、後北条氏の時代に、上曽我を領知していた人物。本多豊前守。上曽我・瑞雲寺の開基で、法名は「瑞雲院龍珠宗洞」。(1)

大磯町西久保字平の小高い所にある畑は信親の邸宅跡といわれており、その西南に「本多窪」、南に「桜馬場」などの地名が残っていた。(2)

信親の父は本多美作守某といい、もともと伊勢の北畠氏に仕え、のちに早雲に従って相模国に移住してきた。(2)

信親は北条氏政に仕えて曽我郷に領知を与えられ、士10騎・卒15人の隊を率い、武田信玄との戦いで戦功があったので、西久保の属していた黒岩郷の領知を与えられた。没後は瑞雲寺に葬られた。その弟・本多出羽守某も戦功があったという。(2)

本多節親

信親の子・本多節親(ほんだつぐちか?、本多主膳正)は信親の領知を相続し、曽我・中村・黒岩の三郷に領知があった。(1)(2)

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、兵士を率いて上曽我に乱入した豊臣氏の兵士と戦い、首級をあげた。・・・と子孫の本多八三郎家の家伝書に書いてあったが、真偽は不明。(1)

後北条氏滅亡後は同村に閑居。小田原城主となった阿部備中守正次の扶助を受け、元和年間(1615-1624)に正次が岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)に移封されたとき、これに従って岩槻に移住し、そこで正保元年(1644)12月23日に死去した。(1)

本多八左衛門

寛文8年(1668)、岩槻城主・阿部正春の家中人数帳に、400石で本多八左衛門の名がみえる(4)

本多八右衛門

風土記稿によると、信親の曾孫:本多八右衛門・本多惣左衛門の兄弟は上曽我村で暮らしていたという。『大磯誌』によると八右衛門は節親の孫。慶安3年(1650)に八右衛門は江戸に召し出されて御書院番・大久保右京亮の与力となった(1)(2)

本多八三郎

八右衛門の子孫は19世紀前半頃、本多八三郎と称していた(1)

神奈川県立公文書館神奈川県歴史資料所在目録第15集-5(平成5・1993) 大磯町黒岩・坂井保治氏所蔵文書の冊11に「由緒白銀御殿本多八三郎方ヨリ写之(相州黒岩村城主本多氏の由緒書)」という明治14年(1881)上曽我村瑞雲寺住職・大井哲俊代写の史料がある(内容未詳)。

国立公文書館蔵『小役人被仰付並御免留』第5冊(コマ137)に、推定天明7年(1787)の江戸城の富士見御宝蔵番として小普請組・天野山城守組の本多八三郎の名がみえる(3)

『文化年鑑』(柏書房、1981)にも名がみえ、住所が「あさふはん丁(麻布番町)」とあるようなので(内容未詳)、坂井氏文書の「白銀御殿」とは麻布御殿(白金御殿/富士見御殿、東京都港区六本木)のことのようである。

文政11年(1828)3月に、瑞雲寺にあった先祖・本多信親の位牌が破却され、同寺の開基について争論になったらしく、国立公文書館に『相州上曾我村瑞雲寺開基争論記』という史料が残っている。

本多覚左衛門

惣左衛門は上曽我村で帰農し、19世紀前半頃、子孫は覚左衛門と称していた(1)。『瑞雲寺開基争論記』にも上曽我村の百姓として同名でみえる。

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参考資料

  1. 風土記稿 曽我里 上曽我村の項
  2. 河田羆『大磯誌』附録 国府村 本多信親邸址、富山房、1907年
  3. @mokunojou「小役人被仰付並御免留(その5)」『たまーに書くから』2020年12月10日
  4. 「阿部正春御陣代中 家中人数帳」『岩槻市史料 第七巻 岩槻城主阿部氏編第二』岩槻市教育委員会社会教育課市史編さん係、1976年、30頁