桃源寺(とうげんじ)、龍鳳山雲晴院は、城山2丁目にある曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。大久保氏の内庵の1つ。寛永年間(寛永9年・1632年以降、1644年まで)に、大久保忠職が城主となっていた美濃国厚見郡(岐阜県岐阜市)加納の加納城下で、その姉で、里見忠義の室だった桃源院により、亡夫・忠義の菩提を弔うために加納・久運寺の住僧を招いて創建され、のちに大久保氏の転封に伴い小田原へ移された。江戸時代には久運寺の末寺だった。(1)
縁起
大久保加賀守忠常の嫡女(『断家譜』「大久保相模守忠隣女」(2))は、里見安房守忠義に嫁いだが、(元和元年・1615に(1))忠義が伯州舎吉(鳥取県倉吉市)へ配流になった後、離縁して実家に帰った(1)。
里見忠義は元和3年(1617、『断家譜』によると元和8年・1622(1))6月19日に配流先で死去した(1)。法名:雲晴院心宗(叟(2))賢涼居士(1)。没年29(2)。
(寛永9年・1632に(1))忠常の子・加賀守忠職が濃州(美濃国)加納城に封ぜられた後、忠義の後室(未亡人)は夫の菩提を弔うため、城下に小院を造営して、久運寺の住僧・能山を招いて追福を修せさせた(1)。
寛永年間(1624-1644)に忠職はこれを寺院とし、夫婦の院号をもって寺・院号とした。開山は能山耳芸(明暦元年・1655没)、開基は忠義の後室で法名:桃源院仙応妙寿大姉(明暦元年(1655)閏8月(3)晦日没)。(1)
それから、城主の転封に伴って、小田原へ移転した(1)。
境内
『風土記稿』のとき、寺地は侍屋敷の中にあった(1)。
扁額
本堂の前に明僧・高泉筆の「龍鳳山」の扁額が掛けられていた(1)。
白山社
境内に白山社があった(1)。
寺紋
寺紋:本堂の屋根主棟・引き戸のガラスに九曜紋。本堂向拝高欄の親柱に九曜紋と「丸に三つ輪違い」(2019年調査)
リンク
- 大佗坊「小田原城山桃源寺」『大佗坊の在目在口』2014年9月15日
参考資料
- 『風土記稿』
- 田畑吉正『断家譜』国立公文書館内閣文庫 請求番号157-0131、第25冊 コマ7
- Wikipedia日本語版の元号の記事によると、明暦元年(1655)に閏(8)月は無く、同年以前の最後は元和9年(1623)、その次は寛文元年(1661)。寛文元年(1661)の誤りかと思うが、保留。