欠ノ上観音堂欠ノ上観音堂(かけのうえかんのんどう)、総林山竜泉寺(りゅうせんじ)は、久野足柄街道沿いにある御堂(3)(4)。本尊は観音菩薩(3)(4)。『皇国地誌久野村誌』によると、慶長16年(1610)の創建(3)。1879年(明治12)に寺号を得るまでは、無名の観音堂だった(1)(3)。「欠ノ上」は地名で、『風土記稿』の久野村の項には小名「崖ノ上」でみえ(2)久野川沿いの崖の上に寺地がある(7)

縁起

『風土記稿』の久野村の項には、寺号のない観音堂の記載が2つあり、うち1つには「正観音を置、〔弘法大師作、〕略縁起に拠に、天正の兵火(天正18・1590)に罹り、久しく土中にありしが、一時村民の夢に入、地を鋤て彼霊像を得たり、〔今堂北の白田間に小塚あり、出現の所と云、〕即堂宇を再営し安置すとなり、村持、下同、」とあり、もう1つには記事がない(1)2019年現在、久野には欠之上観音堂と大畠観音堂があるが、『風土記稿』の観音堂との対応関係は不明。

『皇国地誌久野村誌』(草稿本)の「竜泉寺」の項によると、地番は欠ノ上(久野)2833、本山は久野・総世寺。慶長15年(1610)3月の創建だが、開山は不詳。「観音堂」と称する御堂だったが、1879年(明治12)11月に「竜泉寺」と改められた。(3)

現地の案内板には、「総林山龍泉寺」の山寺号は、総世寺の総、天龍山(保寿寺)の龍、東泉院の泉からとってできたという説がある、とある(4)2020年の本尊開帳の際にもこの3寺の住職が法要を行うとあるので(5.1)、山寺号は明治に、そういう理由で付けたのかもしれない。

同案内板は、御堂は弘治元年(1555)春に総世寺8世・大岳宗純が建立し、禅(弾)誓上人が教化の拠点としたもの、としている(4)

同案内版からは、観音堂の建立当時から山寺号があったかのように読めるが、『風土記稿』と『皇国地誌久野村誌』によると、明治までは無名の「観音堂」であったことが確からしいし、命名の理由は明確に言い切ることもできるのを、あえて曖昧に記しているように思われる。建立の時期は『皇国地誌久野村誌』より古くなっているが、根拠は不詳である。

仏像

本尊(観音像)と十一面観音立像は、禅誓上人の作とされている。ほかに薬師如来の座像がある。(4)

隠れキリシタン信仰

観音堂には、

  • かつて前立の仏像の手にクルス(十字架)のついた数珠がかけられていたこと、
  • 子育ての地蔵のあり方(石像の様式)、
  • 中興住職の墓碑の法号(骨相紋随庵主寛政11年(1799)8月)が訓で「コスモス」と読めること

など、隠れキリシタン信仰を思わせる痕跡が残っている、と指摘がある(4)

開帳

2020年(令和2)4月17日に本尊の観音像の開帳が行われた(龍泉寺本開帳実行委員会:瀬戸祐明会長)。開帳は12年に一度、子年に行なわれており、境内にある高さ5mほどの回向柱(えこうばしら)も12年毎に建替えられているという。(5)(6)

土砂災害警戒区域

欠ノ上観音堂の境内の一部を含む久野36の区域(206-H26-036 久野36)は、神奈川県の土砂災害警戒区域(急傾斜)に指定されている(2021年3月19日 告示第150号)(8)

寺紋

本堂屋根と欄間彫刻の寺紋(卍)

寺紋は卍(7)

リンク

参考資料

  1. 『風土記稿』
  2. 『風土記稿』 早川庄 久野村 小名
  3. 田代道彌「皇国地誌久野村誌(草稿本)の発見」『おだわら 歴史と文化』第13号、小田原市役所企画部市史編さん課、2000年3月、41-42頁
  4. 著者不明「総林山龍泉寺 欠之上観音堂」現地案内板、設置時期不明、2019年閲覧
  5. タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版
    1. 欠ノ上観音堂 本尊 12年ぶり開帳」 2020年4月11日号
    2. 12年ぶり本尊開帳 欠ノ上観音堂で法要」2020年4月25日号
  6. カナロコ本尊の観音像、12年ぶりに開帳 小田原・欠ノ上観音堂」神奈川新聞、2020年4月21日
  7. 2019年調査
  8. 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図