永久寺永久寺(えいきゅうじ)、盛徳山は、城山3丁目にある臨済宗妙心寺派寺院。本尊は薬師如来(4)大久保氏内庵の1つで、寛永18年(1641)に播州・明石で創建され、その後、大久保氏が小田原に転封になった際に、小田原へ移された(1)(4)。2022年現在の小田原駅東口(栄町2丁目)にあたる伝心庵の跡地に寺地を与えられており、所有地に北条氏政・氏照兄弟の墓所がある(1)(2)。江戸時代には京都花園・妙心寺の末寺だった(1)

沿革

大久保加賀守忠職が播州・明石に在城中の寛永18年(1641)3月に、その外祖母・盛徳院(亀子、のち加納殿と呼ばれた。徳川家康の娘で、奥平美作守信昌に嫁いだ)の冥福を祈るために城下に一宇を建立。京都・妙心寺の指示で、江戸浅草・桃林寺2世の僧・浮山紹円(慶安2年・1649没)が住職となり、大応山盛徳寺と号した。(1)

寛永20年(1643)に忠職の母・永久院(千姫。奥平信昌の娘、家康の外孫、大久保加賀守忠常の室)が死去したときに、現在の山寺号(盛徳山永久寺)に改めた(1)

このため、

  • 盛徳院:香林慈雲大姉、寛永2年(1625)5月27日死去。妙心寺に葬られたと考えられ、のち同所に一寺が建立され、盛徳寺と号した。
  • 永久院:梅揚栄玉大姉、寛永20年(1643)4月26日死去。浅草桃林寺に葬られたと考えられる。

の2人を両開基と称していた(1)

その後、大久保氏が小田原に転封になった際に、小田原へ移された(1)(4)

『風土記稿』のとき、廩米50石を附されていた(1)

本尊

本尊は、『風土記稿』には釈迦如来とあるが(1)、1916年の『大日本寺院総覧』には薬師如来とある(4)

境内

観音堂

境内の観音堂には、像高1寸8分(約5.5cm)で、毘首羯摩作とされる千手観音像が安置されており、永久院守護仏といわれていた(1)(4)

鎮守社

境内の鎮守社には、秋葉・金毘羅・稲荷が祀られていた(1)

北条氏政・氏照兄弟碑

境内の巽(東南)の隅に北条氏政氏照兄弟の墓碑があった。台座を含めた高さは3尺(約91cm)あり、1基に2人の法名が並んで彫られていた。(1)(4)
 慈雲院殿勝岩傑公大居士、北条相模守氏政、
 青霄院殿秀岳関公大居士、北条陸奥守氏照、
 天正十八年(1590)七月十一日
碑の裏側に、「生害之場所」と彫ってあった(1)。墓前に「腰掛石」と呼ばれる縦2尺5寸(約76cm)、横3尺3寸(約100cm)の石があった(1)(4)

『風土記稿』は、当時の記録に、兄弟が自害した場所は城下の田村安斎の宅とあり、安斎の邸宅跡が筋違橋・欄干橋の両町の辺り(本町南町)にあることは侍屋敷の条項に詳しく述べたところなので、なぜ永久寺の境内で自害したとされているのかわからない、としている(1)

小田原市公式サイトの「史跡 ・北条氏政・氏照の墓所」の説明によると、後北条氏の時代、2011年現在の兄弟の墓所がある小田原駅東口(江戸時代の永久寺)の辺り(栄町2丁目)には同氏の氏寺だった伝心庵があり、自害した北条氏政・氏照兄弟の遺骸は伝心庵に埋葬された(2)

永久寺が建立される前に、伝心庵は寺町(中町)に移された(2)

土砂災害特別警戒区域

永久寺の境内の一部を含む城山3丁目9-4の区域(206-H26-109 城山3丁目9-4)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(急傾斜)に指定されている(2021年3月19日 告示第150号)(5)

寺紋

寺紋は確認できず。(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 小田原市文化部文化財課「史跡 ・北条氏政・氏照の墓所」小田原市公式サイト、2011年7月6日
  3. 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図
  4. 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、pp.502-503