浄永寺(じょうえいじ)、光秀山妙光院(みょうこういん)は、城山2丁目にある日蓮宗の寺院。本尊は三宝・祖師(1)(或は一塔両尊祖師像(7))。
弘安5年(1282)に、風祭ないし水之尾に創建された(1)(7)。開基は北条時宗の家臣・風祭光秀(没年不詳)、開山はその子・日行(元徳2年・1330没)(1)。
永正15年(1518)、北条氏綱の伯父・日形(永禄元年・1558没)が住職のとき、現在地に移転(1)。
江戸時代には紀伊徳川家の祈願所、日蓮宗の相模触頭となった(1)(7)。身延・久遠寺の末寺だった(1)。
沿革
縁起
鎌倉幕府の執権・北条時宗の家臣で、風祭に住んでいた風祭大野之亮入道光秀という人が、建長年間(1249-1256)に日蓮に帰依し、弘安3年(1280)の冬に身延山に参詣して曼荼羅と蛇身解脱の画像を授けられて、(風祭または水の尾の(7))宅地の側に法華堂と七面社を建立した(1)。
同5年(1282)9月に日蓮が光秀の邸宅に来たとき、現在の山寺号(「光秀山浄永寺」)を授けられ、また光秀の子を弟子僧にして妙音阿闍梨日行と名付けて始祖(開山)とし(日行は元徳2年・1330没)、光秀を開基としたと云われていた(1)。
中興
永正15年(1518)、住職が妙光院日形のとき、現在の場所(城山)に移転した。日形は北条左京大夫氏綱の伯父だったことから、氏綱が堂宇を再興し、この時に「妙光院」の院号を名付けて通称とした。このため日形が中興とされている(日形は永禄元年・1558没)。(1)
享禄3年庚寅(1530)に氏綱から寺域の制札を下賜された(1)。
禁制、右当寺内山屋敷、竹木剪取事、堅令停止畢、自然剪者有之者/相伴可遂披露者也、仍如件、庚寅(享禄3年・1530)六月十日、妙光院、遠山新次郎奉之[虎朱印] |
江戸時代
元和年間(1615-1624)に寺宝の蛇身解脱画像が紀州家の初代・紀伊大納言(徳川)頼宣の母(正木左近大夫康長の長女)・養珠院の信仰を受けたことから、寺は同家の祈願所、宗門の相模触頭となった(1)(7)。
天和2年(1682)に領主・稲葉美濃守正則から、先例のとおり、境内の7石の土地を寄附された(1)。
什宝
本尊
本尊の三宝・祖師像は、弘安3年(1280)の光秀の作で、祖師(日蓮)の開眼といわれていた(1)。
鬼子母神
鬼子母神像は、像高6寸5分(約20cm)、日行の作(1)。
三十番神
鬼子母神像と三十番神像は、もと境内の別の堂宇に安置されていたが、火災にあって本堂に安置されるようになった(1)。
曼荼羅
曼荼羅1幅。日蓮の筆で、「弘安三年(1280)十月日」と記してあった(1)。日蓮が開基・光秀入道に授与したとされていた(1)。
蛇身解脱画像
蛇身解脱画像1幅。同筆とされ、身延山で日蓮が蛇身解脱した様子を描いた像(1)。女人成仏を意味する図柄で、『風土記稿』には寺伝で日蓮が開基・光秀入道に授与したとされていることがみえ(1)、『全国寺院名鑑』には鎌倉末期(-1333)伝大蔵卿筆とされているが(7)、制作年代は安土桃山時代(1568-1598)頃(2)ないし桃山時代(1582-)(3)と推定されている。
画像は日蓮上人説法図の異色なものとして古くから知られており、身延町大野の本遠寺などに模写したものがある(2)。
この画像を信仰していた紀伊徳川家初代・徳川頼宣の母・養珠院は、天下長久の祈願として、東照宮の服の切地(生地?)を用いて表装し、二重の箱を寄附したと云われていた(1)。
1958年(昭和33)に「絹本着色 日蓮聖人像」として神奈川県の文化財指定を受けており(2)(3)、2021年現在、鎌倉国宝館に所蔵されている(3)。
浄永寺文書
年不詳で、北条氏康が浄永寺の日源上人にあてて、出陣に際して合戦の勝利を祈願し、のちそれを謝した書状。1978年(昭和53)に小田原市の指定文化財に指定されている。2013年5月31日現在、鎌倉国宝館に所蔵されている。(4)
境内
1970年当時、境内は350坪(約34m四方)、建物は本堂、庫裡、宝庫、七面堂および稲荷堂(7)。
七面社
境内の七面社には、毘沙門天と妙見大菩薩(1尺2寸・約36cm、運慶作)が合祠されていた(1)。
鐘楼
古い鐘は、正安年間(1299-1302)、遊行中の二祖・真教が寄附したと伝えられていた。『風土記稿』のとき掛けられていた鐘は、寛文2年(1662)に再鋳された鐘だった。(1)
法雲寺跡
子院・法雲寺の跡地があった。開祖は妙秀坊日永(文和3年・1354没)。(1)
片岡球子の墓
境内奥に日本画家・片岡球子の墓がある。1944年(昭和19)に当時教員をしていた横浜・大岡国民学校の児童を引率して同寺に疎開した縁で、2008年に103歳で没した後、墓所が造立された。(6)
土砂災害特別警戒区域
浄永寺の境内の一部を含む城山2丁目3-2の区域(206-H26-151 城山2丁目3-2)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(急傾斜)に指定されている(2021年3月19日 告示第150号)(5)。
年中行事
1970年頃、毎年9月19日に、七面明神大祭と宝物虫干を行っていた(7)。
寺紋
寺紋は日蓮宗橘。(2019年調査)
リンク
- 著者不詳「光秀山浄永寺(小田原市城山)」『日蓮聖人のご霊跡めぐり』2017年4月30日
参考資料
- 『風土記稿』
- 小田原市文化部文化財課「絵画・絹本著色 日蓮上人像」小田原市公式サイト、最終更新 2021年7月5日
- 神奈川県教育委員会教育局生涯学習部文化遺産課『神奈川県 文化財目録 令和3年5月1日現在』2021年5月、p.15
- 小田原市文化部文化財課「古文書・浄永寺文書」小田原市公式サイト、最終更新 2013年5月31日
- 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図
- 「片岡球子、城山に眠る 疎開先・浄永寺との約束」タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2017年5月20日
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.423