海蔵寺 参道海蔵寺(かいぞうじ)、宝珠山は、早川にある曹洞宗寺院。本尊は釈迦如来。嘉吉元年(1441)の創建で、開山は安叟宗楞(文明16年・1484没)とされているが、これは湯河原町宮上・保善院の創建・開山で、享禄元年(1528)に北条氏綱により早川へ移され、海蔵寺と改称したようである。

天正18年(1590)の小田原合戦で陣没した豊臣氏の家臣・堀秀政戸沢盛安の2人を中興開基とする。江戸時代には下総国(市川市)国府台・総寧寺の末寺で、板橋香林寺久野総世寺城山福泉寺養林寺根府川岩泉寺の本寺だった(1)。直末38ヵ寺を数えたともいう(6)

沿革

縁起

『全国寺院名鑑』は、応永21年(1414)に安叟宗楞が真言宗の寺院の廃跡を起したとしている(が開創時期と『風土記稿』にある安叟宗楞の没年が合わない)(6)

『風土記稿』によると、嘉吉元年(1441)に安叟宗楞(文明16年・1484没)によって創建された(1)

『曹洞宗人名辞典』によると、享禄元年(1528)に北条氏綱が、土肥宮上村(湯河原町宮上)の宝(保)善院を早川に移し、海蔵院(寺)と改称させた(8)

  • これを真とすると、応永21年(1414)ないし嘉吉元年(1441)は保善院の創建時期で、早川への移転・創建は、安叟没後の享禄元年(1528)のことだったのではないか。

戦国時代

天文2年(1533)に北条氏綱から寺領内での草花・竹木の剪取を禁じる制札を与えられた(1)(6)

天正年間(天正元・1573 - 天正18・1590)に後北条氏の帰依を得、関八州の僧録(僧侶の人事を統轄する機関)となった(6)

結城政勝の来訪

5巻本『北条記』の巻2「結城政勝加勢を請事」によると(2)、弘治元年(1555)に下野国の結城左衛門督政勝伊勢参宮のついでに小田原を訪問し、北条氏康と面会したとき、海蔵寺の住僧の紹介を受けた(1)

弘治元年(1555)の夏、下野・結城殿、伊勢参宮ありて、下向の時、小田原へ参り、出仕申度由、海蔵寺の和尚を以て被申入。兼てより御旗下の儀にて、切切(熱心に)御太刀・御鷹など被進上の事なれば、奏者には不及と云へども、此和尚、関東下向の時、結城殿より扶助にあづかり、今又当参の時分なれば、かやうに取持給。

和尚被申けるは、此結城殿、文武両道は不及申に、弓馬・歌・兵法・水れん、一として至らずと云芸もなし。近年は仏道に心掛給ひ、曹洞下善迦和尚にまみへ、禅法悟入の志し候。且又詩文を好み、先年結城安穏寺にて蓮花を御覧じ、

 政勝
 安穏寺前湖水天    行人抛筆夕陽辺
 秋風惟処大平曲    白露団団多少蓮

 和 皎月
 有客扣扉残暑天    携詩道自東海辺
 吟心乍入清香国    千里同風君子蓮

かやうに作り給ふ。文武二道の名将にて候よし御披露ある。

次る日に彼結城政勝、海蔵寺并山角遠江御同心にて出仕あり。毛氈十枚、金子十五両進上被成則御対面あり。色色の御馳走。次日、又於本光寺天十郎に舞をまはせ、御馳走。其後政勝、常陸の小田氏治と合戦可仕候、御加勢被成可被下との儀也。最も御加勢あるべし、心易可有、と被仰ける。

『小田原記』(5巻本『北条記』)巻2「結城政勝加勢を請事」より(3)

政勝の滞在中、氏康は政勝に同伴して海蔵寺を訪れ、残花を賞して詩歌の会を催した(1)

其後、政勝、御いとま御申候へども、平に三ヶ日と留め、海蔵寺へ御同道あり。花見の御遊有り、
 政勝
 緑樹重陰細雨斜    清遊何幸寄香車
 小庭紅薬待君意    四月留春一朶花

 綱周
 忘れめや かりねの露の 明ほのゝ 消せぬ雪に 庭の卯の花

 満春
 ぬるゝ共 よしや形見の 露なから をき別れ行 とこなつの花

 栄甫
 心あるや きよきみきりに 色そひて 君が袂に 咲にほふはな

 一春
 宿からや また残りける 足引の 山路のおくの 山さくら花

『小田原記』(5巻本『北条記』)巻2「結城政勝加勢を請事」より(3)

中興開基

『風土記稿』の頃、海蔵寺には、天正18年(1590)の小田原合戦のとき陣没した、豊臣秀吉の家臣・堀左衛門督秀政戸沢治部大輔盛安の墳墓があり、2人は海蔵寺の中興開基とされていた(1)

江戸時代

天和2年(1682)に稲葉美濃守正則は、海蔵寺の境内14石1斗9升を除地とした(1)

『全国寺院名鑑』は、この外護によって宗風が上がり、僧俗の多くが集まるようになった、とする(6)

月潭和尚

40世・月潭の門下からは、森田・棋上・西有の3人の禅師を輩出し、「関左禅林」と称された(6)

什宝

安叟の書

開山の安叟の書1幅があった。壬寅(『風土記稿』は文明14年・1482と推定)5月9日、安叟の花押があった。弟子10哲と4老の位次を記し、正嫡・天室首坐に付与するものだった。(1)

古文書

古文書11通を所蔵していた(1)

  1. 天文2年(1533)11月、北条左京大夫氏綱の制札。寺領内で草花・竹木を剪取する事を禁じたもの。氏綱の花押が押してある。
  2. 永禄11年(1568、戊辰)7月に海蔵寺の関係者が上洛したときの文書
    1. 同月、板部岡江雪斎岩本太郎左衛門に与えた奉書。海蔵寺が上洛するため、路銭として千疋を渡されるべきとの旨を通達したもの。「戊辰七月」とあり、虎朱印が押してある。
    2. このとき岩本が発出した分国中伝馬の朱印状1通。伝馬5疋を与え、分国中では1里につき1銭を除くべきことを述べ、「辰七月岩本奉、小田原より甲府迄、関本透宿(『風土記稿』は「通宿」の意、としている)」と記した、虎朱印のあるもの。
    3. 甲・信2国の伝馬の印状1通。「伝馬7疋出すべく、海蔵寺に進ぜらる」と記し、「戊辰七月十三日信州木曽通宿中」とあって、朱印を押したもの。
    4. 馬夫傭銭(馬夫を傭う銭)の員数(定数)を記したもの1通。「府中より初て福島に終る、凡て十二駅、馬夫一人に何文」と記し、末尾に「七疋分合一貫四百文、戊辰七月十四日」とあり、朱印が押してある。
  3. 朝倉左衛門督義景北条氏政父子へ音物を贈ったときの書簡。文末に「八月八日、謹上海蔵寺衣鉢侍者禅師、景徳[花押]」とあるもの。『風土記稿』は、永禄11年の上洛のとき、下向に際して送られたもの、と推測している。
  4. 天正13年(1585)11月の掟書。文意は氏綱の制札と同じ。相良左京進の奉書で、虎朱印が押してある。
  5. (某年)3月16日に後北条氏が垪和伯耆守に与えた書。出馬につき、兵士の員数を指示・命令したもの。虎朱印がある。伝来の由緒は不詳。
  6. (某年)4月26日の制札。南条四郎左衛門幸田与三が発出したもの。寺領内の竹木の苅伐などを禁止したもの。北条氏の朱印がある。
  7. (某年)9月26日、月斎の奉書。白綿20把を施し与える旨を記載したもの。北条氏の朱印が押してあり、宛名に海蔵寺とある。
  8. 天正17年(1589)12月の豊臣秀吉の制札。『風土記稿』は、小田原合戦のときに発出したものだが、他所に伝わる制作はどれも「天正十八年(1590)卯月(4月)」とあり、前年の暮れに発出したものは稀だ、としている。

境内

1970年当時、境内は530坪(約41.9m四方)、建物は本堂63坪(約14.4m四方)、庫裡56坪(約13.6m四方)、僧堂30坪(約10m四方)(6)

本堂

海蔵寺 本堂J・A・Cスタッフブログによると、本堂は1987年頃、同社が造営工事をしたもの(4)

堀秀政・戸沢盛安の墓

『風土記稿』には、境内に、天正18年(1590)の小田原合戦のときに陣没した堀秀政と戸沢盛安の墳墓があるとされている(1)

2022年現在、海蔵寺の墓地には堀秀政の墓がある。戸沢盛安の墓は所在不明。

ビランジュ

海蔵寺境内のビランジュ境内にビランジュの木が生えているが、国指定天然記念物でかながわ名木100選に選ばれている「早川のビランジュ」とは別の木である。

『全国寺院名鑑』によると、1970年当時、境内のビランジュ2本は市の天然記念物に指定されていた(6)

早川のビランジュは、海蔵寺へ上がる前の一夜城下通りを北西に600mほど進んでから東邦薬品(株)のある交差点を南へ入って100mほど進み、突き当たりを50mほど西進した所にある入り口からターンパイク箱根の下を通って南へ進んだ所にある。(2019年調査)

不許葷酒入山門碑

入り口に建つ「不許葷酒入山門」の石柱は、天明6丙午年(1786)7月に根府川(広井)長十郎氏房を施主として建立されたもの(2022年調査)

土砂災害特別警戒区域

海蔵寺を含む早川沢の区域(41018 早川沢)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(土石流)に指定されている(2014年3月11日 告示第132号)。(5)

寺紋

寺紋は両山紋(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 「結城政勝加勢を請事」は、『北条記』の中でも、6巻本(『北条史料集』など)や10巻本(国立公文書館(昌平坂学問所旧蔵)本『小田原記』請求番号:168-0065など)には無く、5巻本1種(国立公文書館内閣文庫(林家旧蔵)本『小田原記』など)や同2種(『国史叢書』の『異本小田原記』など)にある。
  3. 国立公文書館内閣文庫(林家旧蔵)本『小田原記』(寛文5年・1665写)請求番号169-0051 第1冊 コマ75。片仮名・合字は平仮名になおし、句読点を補った。
  4. Takuyamitani「小田原-海蔵寺様」J・A・Cスタッフブログ、2011年2月9日、arc.
  5. 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図
  6. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.421
  7. 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、p.511
  8. 稲村坦元『曹洞宗人名辞典』国書刊行会、1977、p.130

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