無量寺入口無量寺(むりょうじ)、不老山寿松院は本町にある浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。天正元年(1573)の創建で、開山は専蓮社成誉 寿松(天正14年・1586没)、開基は不詳。徳川家康の指示により、文禄3年(1594)に江戸にも同名の寺院が創建された(浅草鳥越・寿松院)。江戸時代には、京都・智恩院の末寺だった。(1)

沿革

東京浅草・寿松院の記録によると、天正18年(1590)に、小田原の寿松院の3世・根蓮社善誉 林貞が、徳川家康の陣屋に呼ばれ、また家康が寿松院を訪問して、江戸へ移るように、と指示を受けた。文禄3年(1594)に江戸の鍛冶橋門内に寺地を下賜され、同名の寺院を創建。同院はその後、柳原雁淵から浅草へ移転した。(1)

  • 浅草寿松院の記録に「光蓮社善誉称入林貞は、相の三浦の産、生実大厳寺道誉の弟子、始鎌倉安養院住職、後小田原寿松院住職となる、天正十八年(1590)、東照宮御陣屋へ召され、十念を授与し奉り、又自坊へ入御あり、江戸へ移べきの上意を蒙る、文禄三年(1594)鍛冶橋門内にて寺地を賜る、山院寺号とも小田原に同じ、後年柳原雁淵に移り、又浅草に移るとなり、」とある(1)
  • 2022年現在、東京の寿松院は台東区鳥越2丁目13にある(2)

正徳4年(1714)、18世・円察の代に焼失し、享保5年(1720)に再建(5)。小田原の無量寺は、昔は「寿松院」と呼ばれていたが、享保9年(1724)から寺号を用いるようになった(1)

1923年(大正12)、関東大震災で建物が倒壊(6)

1931年(昭和6)から1932年(昭和7)にかけて、木造の本堂が再建された(6)

什宝

徳川家康木像

『風土記稿』のとき、本尊の阿弥陀如来のほかに、束帯姿で、像高8寸(24cm)ほどの徳川家康の木像が安置されていた。これは天正年間(天正18・1590)に家康が寺院に滞在した由緒をもって、文化の頃(1804-1818)に、26世・秀耕が勧請したもの。(1)

境内

1970年当時、境内は370坪(約35m四方)、建物は、本堂が54坪(約13.4m四方)、庫裡58坪(約13.8m四方)など(5)

観音堂

『風土記稿』のとき、境内の観音堂には、十一面観音が安置されていた(1)。像高3尺(約90cm)、聖徳太子作とされていた(1)

『全国寺院名鑑』によると、無量寺の十一面観音像は、南北朝期(1331-1392)の作(5)

地蔵堂

『風土記稿』のとき、境内に地蔵堂があった(1)

弁天社

『風土記稿』のとき、境内に弁天社があり、八臂弁天が安置されていた。像高5寸(約15cm)、毘首羯摩の作とされていた。(1)

鐘楼

『風土記稿』のとき、境内の鐘楼には、享保7年(1722)3月鋳造の鐘が掛けられていた(1)

子院廃跡

『風土記稿』のとき、境内に、天明年間(1781-1789)に廃止された子院の高樹院・長勝院の跡地があった(1)

年中行事

お話会

大正の初期、毎日曜日の午後に、寺で子供会のお話会が催され、住職らが数名で、仏話や「こわい話」「面白い話」などを話して聞かせていた(6)

演奏会

2019年10月6日に無量寺で小田原青年会議所 10月例会企画の演奏会が開催され、スモークと発光ダイオード(LED)を使って演出をしながら、僧侶がシンセサイザーなどで演奏をした(3)(4)

寺紋

寺紋は月影杏葉(2019年調査)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 浄土宗、浄土宗寺院検索壽松院、更新時期不明
  3. カナロコ「寺町」観光資源に 寺院で演奏会など開催 小田原」神奈川新聞、2019年11月11日
  4. 小田原青年会議所 > 事業報告 > 10月例会 「お寺×光の祭典」~令和に始まる寺まちへの歩み~ 2019年10月6日 最終更新2019年10月11日
  5. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.419
  6. 高原松太郞「24区(旧代官町)寺院の起こり」『第24区公民館 開館3周年記念誌(代官町)』第24区自治会、1980・昭和55、50-51頁

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