熱海行き汽船(あたみゆききせん)は、1907年(明治40)から1924年(大正13)頃まで、東京から熱海、あるいは国府津から小田原、熱海などを経て、伊東まで運行していた汽船。
東京熱海往復汽船
東京-熱海間の航路は、1907年(明治40)に就航した(1)。汽船は、東京の霊岸島を21:00に出帆して、翌日5:30に熱海へ到着(1)(3)。熱海から東京へは、18:00に出帆し、翌日4:30に到着していた(1)(3)。運賃は片道1円60銭だった(1)(3)。(1912・大正元年8月5日調)
国府津熱海往復汽船
また国府津から、小田原、熱海など沿岸各地を経由して伊東へ行く汽船が運航されており、国府津を12:00に出帆し、12:30に小田原に到着、14:00に熱海に到着していた(1)(3)。熱海からは、9:00に出航して、10:30に小田原に到着、11:00に国府津に到着した(1)(3)。運賃は、小田原まで10銭、熱海まで55銭だった(1)(3)。(調査時点は上に同じ)
国府津・小田原の停泊場
石井富之助『小田原と文学』によると、汽船は国府津では国府津館、蔦屋の真下に停泊し、小田原では千度小路の元の魚市場下に停泊した。いずれも港が無いため、波打ち際から200mほど沖合に停泊し、岸から客を乗せた艀が漕ぎ出して行って、汽船の船縁に斜めについている階段を上り、上り切ったら降りる客がその艀に乗り移って浜辺に到着した。(出典不明)(1)
1924年頃の状況
1925年(大正14)6月刊の島崎藤村「熱海土産」に、東京から熱海へ行くのに、根府川行きの汽車に乗り、早川で降りて、早川から汽船に乗船し、汽船は、国府津から小田原を経由して早川に停泊し、根府川、真鶴、吉浜を経て熱海の横磯に到着、更に伊東方面へ向かったという記述がある(1)(4)。また同じ年に藤村は再び東京から熱海へ向かい、行きは国府津から乗船、帰りは熱海から東京へ直行する汽船に乗船したとある(4)。
播摩1994は、「これらの「熱海行き汽船」は、大正9年(1920)12月、国有鉄道熱海線の開通を間近に控えて、まぼろしのように消えてしまった」としているが(1)、藤村の話は1924年(大正13)夏のことと推測されるので、熱海線の小田原-熱海間が開通する1925年(大正14)(2)かその頃までは汽船はまだ運航されていたかと思われる。
関連資料
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石井富之助『小田原と文学』私家版、1972
- 再版:小田原文芸愛好会、1990
参考資料
- 播摩1994:播摩晃一「熱海行き汽船」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、40-41頁
- 飯田耀子「熱海線と小田原駅開業」同書54-55頁
- 大町桂月「汽車電車軽便鉄道汽船の賃金及時間表」『箱根山』至誠堂、1912・大正元、附録4-5頁、1912年(大正元)8月5日調べ。
- 島崎藤村「熱海土産」『伸び支度』〈藤村パンフレット第3輯〉新潮社、1925・大正14、61-110