牧野 信一(まきの しんいち、1896年 - 1936年)

経歴

1896年(明治29)11月12日、小田原町緑1丁目(栄町)で、父・久雄25歳、母・エイ24歳の長男として生まれる(1)。牧野家の先祖は小田原藩士だった(1)

1897年(明治30)父・久雄は単身アメリカへ渡航した(1)。母は結婚前から小学校の教師をしており、出産後も仕事を続けていたので、祖父母が牧野を育てた(1)

1903年(明治36)、8歳のとき、尋常小田原小学校に入学(1)

1909年(明治42)に小学校を卒業し、県立第二中学校(1963年当時の小田原高等学校)に入学した。同級生に、のちに小田原市長となる鈴木十郎がいた(1)

1914年(大正3)19歳のとき、中学校を卒業し、4月に早稲田大学高等予科に入学(1)。翌年、留年し、牧野の誘いを受けて同科に入学した鈴木と同級となった(1)。その頃、鈴木、浜野英二らと同人誌『金と銀』を数号出版した(1)

1919年(大正8)、早稲田大学の英文科を卒業し、巌谷冬生の斡旋で時事新報社の雑誌部に就職(1)。1年ほどで、童話界の先輩だった安倍季雄がいた同社の『少年』『少女』編集部の記者となり、少女読物などを執筆した(1)

1919年(大正8)11月に浅原六朗下村千秋ら12人と同人誌『十三人』を創刊した(1)。その第2号(12月)に発表した「」をみた島崎藤村から、非常に心を動かされたという手紙と、10円の為替を贈られた(1)

1920年(大正9)、藤村の紹介で『新小説』8月号に「凸面鏡」を発表、新人として文壇にデビューした(1)

1921年(大正10)、時事新報社を辞職して、小田原の家(1919・大正8年9月に緑町から新玉2丁目400番地に転居)に戻り、鈴木せつ子と結婚した(1)

その後のことは、全集の年譜を参照(1)

1934年(昭和9)、(東京)五反田の八霞荘から小田原の家に戻った(1)。年少の頃からの友人の瀬戸一弥が経営していた好文堂書店に滞留していたこともあったとみられている(1)

1936年(昭和11)2月、神経衰弱に襲われ、夫人との諍いもあって、小田原の家に戻った(1)。同月、芝書店から『鬼涙村』を出版(1)。同年3月、同書店から『酒盗人』を出版(1)。この頃、瀬戸のもとを頻繁に訪れたり、鈴木十郎に度々手紙を送ったりした(1)。同月24日夕方、納屋で死自殺(1)。享年41(1)。亡くなった日の机の上には、鈴木が斡旋した『朝日新聞』の新聞小説「さくらの花びら」の第10回分の書きかけの原稿が広げてあった(1)

遺骸は寺町(中町1丁目)の清光寺に葬られた(1)

1956年(昭和31)4月23日に、20年忌の墓前祭が営まれ、新しく墓碑が建立された(1)

参考資料

  1. 石井富之助「3 牧野信一」神奈川県立図書館『神奈川県の歴史 県下の文学編 上』〈神奈川県立図書館シリーズ8〉神奈川県立図書館、1963、75-79頁

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