瑞渓院の墓瑞渓院の墓(ずいけいいんのはか)は、栢山善栄寺の墓地にある、同寺の中興開基で、元亀2年(1571)に死去した、北条氏康の室、法号:瑞渓院光室宗照の墓(1)(2)

『風土記稿』によると、善栄寺の寺伝では、同寺は、初め律宗の寺院で、のち臨済宗に改めたが、天文23年(1554)に瑞渓院が僧・宗忻に開山を頼んで再興し、そのとき曹洞宗に改宗したとされている(1)

文化財指定

瑞渓院の墓は、1961年(昭和36)に「北条氏康夫人の墓碑」として小田原市の文化財(建造物)に指定されている(2)

現地の墓碑の脇に小田原市教育委員会が造立した石碑があり(2022年調査)、碑銘は小田原市公式サイトの文化部文化財課の説明文と似ているが、相違点もある。

市公式サイトの文化部文化財課の説明文(2)

(最終更新 2011年7月6日)

現地の市教育委員会の石碑の碑文

(令和2年・2020頃?)

建造物・北条氏康夫人の墓碑

市指定 昭和36年(1961)3月30日

小田原市指定重要文化財

北条氏康夫人の墓碑

所有・所在:栢山868 善栄寺 (なし)
形状:この墓は、高さ144cm江戸時代に造立された宝篋印塔で、基檀はなく、相輪(塔の上部にある輪)も失われています この墓はごらんのとおり簡素な宝篋印塔ですが、
元は善栄寺本堂の傍らにある墓地内北隅にありましたが、今は山門を入った本堂前に移されています。 (なし)
風雨の浸食を受けて、彫銘の文字は読み難いですが、塔身の周囲に「瑞渓院殿光室宗照大姉 元亀二未年十一月二十日卒小田原北条家三代氏康公簾中」の文字があります。 塔身の周囲には「瑞渓院殿光室宗照大姉 元亀二未年十一月二十一日卒小田原北条家三代氏康公簾中」の文字があります。

概説:北条氏康の夫人瑞渓院の父は、駿河国領主今川氏親。母は京都の公卿中御門大納言宣胤の息女で、氏親の正室でした。また今川義元は、夫人の実弟です。

この瑞渓院は、北条氏康の夫人で、父は駿河国の領主今川氏親、母は京都の公卿 中御門大納言宣胤の息女でした。また今川義元は瑞渓院の実弟にあたります。
夫人は才色兼備で、天文4年(1535)氏康に嫁ぎ、元亀2年(1571)に死去するまでの、約35年間内助の功績が大きく、氏康を助けました。 夫人は才色兼備で天文四年(一五三五)氏康に嫁ぎ元亀二年(一五七一)に死亡(五十七歳)まで約三十五年間、内助の功績が大きく氏康を助けました。
また、子福者で、今川記に特筆されているように、氏政氏照ら7人の男子と5人の女子を生みました。夫人は、この大勢の子女育成のため、家庭教育には特に力を注いだので、いずれも立派な人物になりました。 また、子福者で「今川記」に特筆されているように氏政・氏照ら七人の男子と五人の女子を生みました。夫人は、この大勢の子女育成のため家庭教育に特に力を注いだのでいずれも立派に成人して有為の人物にとなりました。
(なし) 本墓は、城山願修寺にありましたが、今はなく、この墓は貴重な存在です。
(なし) なお、この寺は、夫人が天文二十三年(一五五四)に再興したものです。
(文化部文化財課) 小田原市教育委員会
  • 現地の宝篋印塔には相輪と基壇がある(2022年調査)。市公式サイトが「相輪と基壇がない」と記した後で相輪と基壇が補われたのか?定かでない。高さ(144cm)が削除されているのはそのためかもしれない。
  • 江戸時代とされていた造立時期が削除されている。
  • 場所は2022年現在、善栄寺の墓地内やや北寄り、本堂からみて南西側にある。
  • 没日が1日相違している。
  • 「才色兼備」とか「内助の功」とか、根拠不明。時代錯誤的だが、昔の文面をそのまま引用しているようだ。
  • 市教育委員会の石碑は見る側の正面を向いておらず、なおかつ位置が低くて前に墓碑と献花があるため読みづらい。金属製・木製の案内板を建てるより石碑の方が高価だと思うが、余分に税金を費やした挙げ句のこの出来の悪さは一体何なのか。

参考資料

  1. 『風土記稿』栢山村 善栄寺
  2. 小田原市文化部文化財課「建造物・北条氏康夫人の墓碑」小田原市公式サイト、最終更新日:2011年7月6日