真楽寺(しんらくじ)、勧山(すすめさん)信楽院は、国府津にある浄土真宗大谷派の寺院。本尊は阿弥陀如来。もとは天台宗の寺院だったが、安貞の頃(1227-1228)、住職の性順が親鸞に師事して、別地に一宇(勧堂、すすめどう)を建立(1)。親鸞はここに7年間滞在して僧俗を教化したといわれている(1)。江戸時代には東本願寺の末寺だった(1)。文久3年(1863)の大火で堂宇や什物を焼失(4)(5)。1922年(大正11)に鉄道敷設のため寺地を移した(5)。
沿革
創建
もとは天台宗の寺院だったが、安貞の頃(1227-1228)、親鸞が相模国を教化して回ったときに、住職の性順が親鸞に師事。国府津村の別地に堂宇を建立し、親鸞はここに7年間滞在して僧俗を教化した後、寺務を上足顕知に譲って京都に帰ったといわれていた。のちに堂宇は「勧堂」と呼ばれるようになった。(1)
このため同寺では開山を親鸞とし、顕知を2世としていた(1)。3世は是証(正和4年・1315没。平大納言時忠の息子で、母は下河辺庄司行光の娘という)(1)。
戦国時代
享保(禄ヵ)年間(1528-1532)に北条氏綱が領内の一向宗の諸寺を廃したとき、真楽寺も破毀され、9世・真乗は逃れて諸国を歴遊(流浪)した(4)。永禄元年(1558)に北条氏康と和し、戻って堂宇を再建した(4)。
天正18年(1590)小田原の役のとき、豊臣秀吉は制札を立てて寺を保護した(5)。
江戸時代
その後、再び衰えたが、13世・超伝(延宝6年・1678没)は本山の再建に功績があり、門主の厚意を得て真楽寺を中興した(1)(4)(5)。
慶安2年(1649)11月に徳川家光から、境内4石と山林竹石につき諸役免除の朱印を下賜され、中門を寄附された(1)(5)。寺の什宝にも、徳川家光や春日局の寄進とされているものがいくつかある(1)(5)。
文久3年(1863)12月12日、国府津村の大火の際に堂宇を焼失(4)(5)。鐘楼・中門・帰命石なども焼失した(5)。1916年当時も、仮の堂宇で運営されていた(4)。
明治・大正期
1902年(明治35)9月の小田原大海嘯のときには、光明寺と真楽寺に負傷者の収容所が設置され、応急手当が行われた(6)。
1922年(大正11)東海道線熱海線の新設のため、寺地を移転することになり、移転に際して本堂・庫裡・帰命堂(宝物堂)が新たに建立された(5)。
什宝
本尊
本尊の木造阿弥陀如来立像は、像高2尺9寸(約88cm)で、親鸞の作とされていた(1)。
その他の寺宝
以下は『風土記稿』に紹介されているもの(1)。
- 阿弥陀如来の画像1軸。親鸞筆。
- 同1軸、顕如筆。裏書に法便法身の立像。本願寺顕如の判あり。
- 謡譜一巻。蓮如の作といい、真楽寺が親鸞の旧跡であるという由来を謡曲にして教化に用いたもの。題名は「国府津」とあり、親筆の本は失われていて、刻本しか残っていなかった。
- 親鸞の分骨1粒(『国府津町誌』には「3粒」とある)
- 聖徳太子が2歳のときの肖像1体(親鸞作)。
- 同像1体(恵心作)
- 阿弥陀如来像1体(伝教大師作)
- 六字名号2幅(1幅は法然筆、もう1幅は蓮如筆)
- 唐銭2文(1つは大定の字と鶴亀の形を鋳出したもの、もう一つは和同開珎と鋳てあるもの)
- 禁制書1通(豊臣秀吉が小田原に在陣したときの制札。「相模国西郡内国府津郷真楽寺、并門前共に」とある。
- 重匣1組
- 服紗2条
『全国寺院名鑑』によると、1970年当時の寺宝には、上記1.の阿弥陀如来絵像と、いずれも伝親鸞作の親鸞木像・法蔵菩薩・五却思惟像・聖徳太子像、ならびに善導大師筆の出山釈迦絵像などがあった(3)。
境内
1970年当時、境内は680坪(約47.4m四方)、建物は本堂45坪(約12.2m四方)、庫裡、宝物堂(帰命堂)、勧堂(別地にあり)があった(3)。
帰命堂と名号石
帰命堂(きめいどう)は、寛永13年(1636)に本山の宣如上人が建造したお堂(1)。中に、高さ7尺(212cm)・幅3尺(91cm)の名号石が安置されていた(1)。その碑文:
「念仏舎等/右志者為続西行光門第一向専修/帰命尽十方無碍光如来/南無不可思議光仏/建武元戌(1334)十一月十二日/同心敬白」(1)
- この名号は、親鸞が当地に居住していた頃、勧堂の下に一切経を積んだ唐船が着岸し、船底に積んでいた石8枚のうちの1つに、親鸞が京都へ帰るときに、末世道俗のためにといって指頭で二つの名号を書いたというもの(1)。
- また一説に、この石に怪異の事があったので、住人が親鸞にお願いして2つの名号を書いてもらったところ、怪異はすぐに止んだという(1)。
- 建武年中(1334-1338頃)に本山3世・覚如上人が国々を巡って来たときに、拝覧してその左右に傍記を加えた(後にその文字を彫り入れた)という。本山の門主が江戸へ参向するときには、きまって参拝していた。(1)
- このとき門主を饗応するのに、黍(きび)・稗(ひえ)・米の三品を団子にして、且砂蕎麦と称し、あらく作った蕎麦切を勧め、また地元で醸造した野酒を捧げるのを通例としていた。これはかつての宗祖の難苦を知らしめるためだったという。(1)
文久3年(1863)12月の火災により、帰命堂・名号石も燬壊し、1916年当時は名号石の榻本(とうほん、碑銘を紙に写したもの)のみとなっていた(4)。
1922年(大正11)に寺地の移転に際して帰命堂は再建され、その後、1931年(昭和6)7月に再建された(5)。
石灯籠
堂の前に石灯籠が1対あり、「寛永9年(1632)仲秋寄附、本多三弥差衛門藤原正友」と彫ってあった(1)。
鐘楼
『風土記稿』のときの鐘楼は、春日局の建立とされ、鐘は貞享3年(1686)の鋳造だった(1)。
この鐘楼は文久3年(1863)の大火で焼失した(5)。
1923年(大正12)の関東大震災後、再建された(5)。
貞享3年(1686)の鐘は太平洋戦争のときに供出された(5)。
中門
『風土記稿』によると、中門は春日局の建立とされていたといい(1)、『国府津町誌』によると、慶安2年(1649)11月に徳川家光から寄附されたという(5)。
この中門は文久3年(1863)に焼失した(5)。
菩提樹
『風土記稿』のとき、境内にあった周囲7尺(約212cm)のボダイジュは、親鸞手植えの樹といわれていた(1)。この木のひこばえが成長したとみられるボダイジュは、1981年(昭和56)に真楽寺のボダイジュとして市の天然記念物に指定されている。
年中行事
1970年当時、10月10日に報恩講、3月25日に永代経会が催されていた(3)。
寺紋
リンク
- 「親鸞聖人御旧跡めぐり 一切経校合逗留の地3 ~国府津真楽寺~」千葉県松戸市 浄土真宗(西)本願寺派 高林寺、最終更新 2020年1月31日
参考資料
- 『風土記稿』
- 聖徳太子の開山という(『風土記稿』)。
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.420
- 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、pp.562-563
- 国府津町誌編纂委員会「真楽寺」『国府津町誌』国府津町、1954、198-199頁
- 「明治三十五年大津波の記」『国府津町誌』213-217頁
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