神谷 増太郎(かみや ますたろう、1881 - 没年不詳)

経歴

1881年(明治14)7月4日、鴨宮に生まれる(2)

1899年(明治32)8月、星崎定五郎草柳竹次郎らと共に(2)北アメリカ大陸へ渡り、はじめ、サンフランシスコの白人の家庭で働きながら、夜間にメソジスト教会へ通って英語を学んだ(1)

1903年(明治36)頃から美術商を営んだ(1)

1905年(明治38)春に日本を訪問。同年秋に再度渡米し、ロサンゼルスの第5街に白人向けの美術店を開業した(1)

1906年(明治39)4月に日本を訪問。前年帰国中に婚約していた酒匂の原泰太郎の長女・田鶴子と結婚し、同年10月に夫妻で再渡米し、商売を続けた(1)。翌1907年(明治40)7月、長男・甫が誕生した(1)

その後、経済恐慌にあって業績不振となり、1908年(明治41)1月に閉店(1)。善後策を講じるため、同年2月に単身で日本を訪問し、同年9月にロサンゼルスへ戻ったが、その後も苦しい生活が続いた(1)

1910年(明治43)6月にロサンゼルスの西第7街に旅館・玉場(ビリヤード場)および桂庵(人材斡旋業)などを開業(1)。商売はうまくいって1年半ほどで相当蓄財ができ、1912年(明治45)4月に東第1街323番に移転して営業を継続。同年暮からは時計・宝石・その他貴金属類販売の美術店も兼業した(1)

妻の田鶴子は、1913年(大正2)に日本を訪問し、2人の子を母方の祖母に預けて再渡米し、ロサンゼルスで婦人洋服裁縫業の従事した(1)

1921年(大正10)、インペリアル・バレーのエル・セントロ市に拠点を移してブロードウェイ街468番に「神谷商会」を設立、食料品・雑貨類と美術品を販売した(2)。ロサンゼルスでは、安藤弥太郞を招請して、オリエンタル・ホテルの経営を続けた(2)

参考資料

  1. 神谷増太郎氏」露木惣蔵『在米神奈川県人』在米神奈川県人社、1915・大正4、133-134頁
  2. 神谷増太郞氏」露木惣蔵『昭和聖代在米神奈川県人』在米神奈川県人社、1934・昭和9、145-146頁