福田 正夫(ふくだ まさお、1893年 - 1952年)
経歴
1893年(明治26)3月26日、小田原市(町)十字4丁目(南町、旧御厩小路)に、父・堀川好才の5男として生まれる(1)。堀川家は代々小田原藩の藩医をしていて、祖父・仙右衛門は明治維新の頃、改革派、種痘開発の先駆として知られ、父・好才も慶應義塾を卒業して、医師をしていた(3)。
父の長い病気のために家計が苦しくなり、1901年(明治34)に東京・赤羽の叔父の家に預けられた(3)。それ以来転々とし、1907年(明治40)1月に小田原町新玉4丁目の福田誠信方に寄寓(3)。福田家は裁縫女学校を経営していた家で、福田はここで勉強して、1908年(明治41)2月に神奈川師範の予備科を受験し、合格(2)。1910年(明治43)3月に福田家へ養子入りした(1)(3)。
師範学校在学中に、富田砕花や百田宗治と知り合い、同級生だった影山公平、下級生だった下島茂らと文学を談じ、歌作も多くした(3)。
1913年(大正2)3月、師範学校を卒業して足柄下郡根府川小学校に勤務(3)。
1914年(大正3)3月、東京高等師範学校の物理科を受験して不合格となり、同年5月に同校体操科に入学(3)。この頃、小田原で、花岡謙二、井上康文と知り合った(3)。
1915年(大正4)2月、白鳥省吾と出会い、トラウベル(Horace Traubel)の著作を知った(3)。それ以来、詩作の傍ら、エマーソン(R. W. Emerson)、ホイットマン(Walt Whitman)、トラウベル(Horace Traubel)、カーペンター(Edward Carpenter)等を耽読(3)。同年12月に白鳥と富田の勧めで、初めての詩集『農民の言葉』を自費出版した(1916・大正5 南郊堂版がある)(3)。
これを契機に、百田宗治の『表現』、川路柳紅の『現代詩集』『文章世界』『早稲田文学』等に詩を寄稿して、認められるようになった(3)。
1917年(大正6)、白鳥・井上と共に雑誌『詩と評論』を発刊し、また加藤一夫と知り合い、雑誌『科学と文芸』の同人となった(3)。
1918年(大正7)1月、小田原在住の人士と詩誌『民衆』を創刊(2)。当時のデモクラシー思想を詩にうたった(3)。
この頃から1927年(昭和2)頃までに、多くの詩集を発刊した(3)。
(1920・大正9年)北原白秋が「白秋山荘」の上棟式を催したとき、地元の文人代表として司会・進行役を務めた(2)。
1921年(大正10)1月、『民衆』は第16号をもって廃刊となった(2)。
同年頃から長編叙事詩を著わすようになり、『高原の処女』(1912・大正11)『恋の彷徨者』(1913・大正12)『嘆きの孔雀』(1914・大正13)『筑波の白百合』(未詳)『死の子守唄』(1915・大正14)などを発表した(3)。いずれもベストセラーとなり、『高原の処女』は帝キネで映画化され、『嘆きの孔雀』『死の子守歌』は松竹で映画化された(3)。
1928年・1929年(昭和3・4年)頃から著作は少なくなり、戦争の頃は少女小説を発表するに止まった(3)。戦後も目立った活動はなかった(3)。
晩年にはよく郷土資料館を訪問し、俳句を作るようになっていて、謄写版刷りの『どんぐり』を配布していた(3)。
1952年(昭和27)6月26日、東京世田谷区北沢の自宅で没した(1)。享年59(1)。先祖代々の墓のある早川の久翁寺に葬られた(1)。
没後、いし子夫人から郷土資料館に寄贈された便箋に辞世とみられる句があった(3)。
いのち限りなし光の如く人空の下に 詩と句つくるなど終りたるべし秋匂ひ |
記念碑
民衆碑
1958年(昭和33)、7回忌にあたり、「民衆碑」建碑の話が井上康文と小田原の有志との間で持ち上がり、1959年(昭和34)1月23日に城内の馬出曲輪にあった透谷碑のそばに建立され、除幕式が行われた(3)。碑面の字は福田が雑誌『民衆』の表紙として書いたもので、裏面の文章は井上康文による(3)。
参考資料
- 宇野応之・松野光純『小田原市の金石文(1)』〈小田原市郷土文化館研究誌3〉小田原市郷土文化館、1967、1頁
- 播摩晃一「近代文芸の先駆北村透谷」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、26-27頁
- 石井富之助「2 福田正夫」神奈川県立図書館『神奈川県の歴史 県下の文学編 上』〈神奈川県立図書館シリーズ8〉神奈川県立図書館、1963、73-75頁