山王神社(浜町)北東角に残る石垣
福門寺の比較地図(3)福門寺(ふくもんじ)は、かつて小田原城の総構の芦子川(山王川)の浜手の角矢倉から1町(約109m)ほど上流の、総構の外にあった、1町四方ほどの小高い場所。三浦浄心『北条五代記』によると、福門寺という寺院があったため、そう呼ばれていたが、天正18年(1590)の小田原合戦のときには既に跡地になっており、小田原城の出曲輪(捨曲輪)が設けられていて、両軍の激戦地になった(2)。
愚老、相州三浦住人、小田原に籠城す。東方。芦子川浜手の角矢倉を持口とす。是より一町計上。総がまへの外に。福門寺と名付。一町四方程すこし高き地形あり。是は昔寺の跡なるによつて。かく名付也。是に又堀を堀。土手芝手をつけ。塀をかけ。城の内より橋を一つ渡し。是を出曲輪と名付。 三浦浄心『北条五代記』寛永版 巻10(1)「小田原籠城捨曲輪へ攻入事」より(2) |
中町2丁目の福厳寺の寺伝によると、同寺は永正元年(1504)の創建当時「福門寺」と号しており、3世・徹厳のとき、大永2年(1522)に今の寺号に改めたとされている。『風土記稿』は、『北条五代記』と同様の『関八州古戦録』の記述を引用して、19世紀前半の福厳寺の寺域は小高い土地ではないので、寺地が創建当時の場所から現在地に移ったと推測している。(1)
明治13-19年(1880-1886)の陸軍参謀本部『迅速測図』と国土地理院『地理院地図』を比較すると、出曲輪は現在の浜町の山王神社のあたりに位置している(図)(3)。2022年現在も、同地の北側には堀があり、北東角に石垣が残っている(写真)(4)。
参考資料
- 『風土記稿』中島村 福厳寺
- 『仮名草子集成 第63巻』東京堂出版、2020、pp.53-54
- 歴史的農業環境閲覧システム > 比較地図 左:農業環境技術研究所『関東平野迅速地図(1880年代)』 右:国土地理院『電子国土基本図(地図画像)』
- 2022年調査