稲葉氏の墓所(いなばしのぼしょ)は、入生田紹太寺(長興山)の境内にある、小田原藩主・稲葉正則とその家族の墓所。実際に紹太寺に葬られたのは正則とその子・正通の継室の2人で、その他5基は、菩提を弔うために正則が造立したもの(供養墓)(1)。また、正通が造立した正則の墓碑があり、墓所の北東隅に、正勝に殉死したといわれる塚田正家の墓がある(1)(2)。
稲葉氏の五輪塔
墓所の中央から北寄りに、6基の五輪塔がある。(1)(2)
法名(2) | 俗名 | 没日 | 裏面の銘文(2) | 続柄(1) |
長興院殿心伝妙安大姉 | 不明 | 寛永2(1625)(2)ないし寛永3(1626)(1)12/20 | 正保二(1645)暦/八月日/稲葉美濃守正則/造立焉 | 正則の母 |
養源寺殿古隠紹太大居士 | 丹後守正勝 | 寛永11(1634)1/25(1)(2) | (日付は削ってあるもよう)/為稲葉丹後守正勝公/同美濃守正則/造立焉 | 正則の父 |
麟祥院殿仁淵了義大姉 | 春日局 | 寛永20(1643)9/14(2) | 為春日御局/正保二(1645)暦/八月日/稲葉美濃守正□/造立焉 | 正則の父方の祖母(4) |
平岩院殿天室智鏡大姉 | 毛利冨 | 寛文4甲辰(1664)5/20(2) | 賢妻大江姓毛利氏富女/塔/小田原侍従稲葉美濃守正則立 | 正則の室 |
龍智院殿珠光元明大姉 | 藤原清姫 | 寛文10庚戌(1670)7/12(2) | 稲葉丹後守義雅公継室/持明院大納言基定公□□/寛文庚戌(1670)秋七月十有二日/藤原姓清姫□塔/卒于武城之第/同十三日葬於采邑相州/小田原城□□ | 丹後守正通(正則の子)の継室 |
梅巌宗春童子 | 不明 | 寛永2(1625)1/29(2) | 正保二(1645)暦/八月日/稲葉美濃守正則/造立焉 | 正則の幼男 |
稲葉正則の墓
紹太寺開基・稲葉正則の墓は、6基の五輪塔とは別に、その南側に造立されてある(2)。
法名(2) | 俗名 | 建碑* | 裏面の銘文(2) |
潮信院殿前従四位侍従兼美濃守泰応元如大居士(塔) | 美濃守正則 |
元禄9(1696)9/6 |
裏面の銘文:越州高田城主従四位下 侍従/元禄丙子九年九月初六日 敬立/兼丹後守稲葉氏越智宿禰正通 |
*『風土記稿』は、正則の没日を元禄9年(1696)9月6日とし、また家譜に「9月7日牛頭山弘福寺に葬り、遺体を相州小田原長興山に送納す」とある、と指摘しているが(1)、墓碑によると同日は正通による建碑の日付のため(2)、死去は他日と考えられる。
塚田正家の墓
また正勝の侍臣・塚田木工助正家の墓があった(1)。地輪の正面には「高節宗勇居士/地/寛永十一年/正月廿五日」、裏面には「正勝公 義内侍/前塚田木工助正家」とある(2)。
『風土記稿』には、没日は寛永12年(1635)1月25日で、正勝の周関の忌景(一周忌?)に追い腹を切ったといわれていた、とあるが(1)、地輪正面の銘文によると、没日は寛永11年(1634)1月25日で、正勝の没日と同日のようである(2)。
『風土記稿』は、その忠死を善しとして、ここに墓を築いたのだろう、としている(1)。
修復事業
2014年(平成26)7月に倒木により被害を受けたが、徳川ミュージアム(平成29年度文化財修復助成事業)、小田原市(平成29年度文化財保存管理補助金)、稲葉家、市民ボランティアおよび紹太寺檀信徒の支援により、2017年(平成29)8月に修復された。(3)
紹太寺のfacebookに、被災後・修復前の写真が何件か投稿されている(2016年9月3日の投稿など)。
参考資料
- 『風土記稿』入生田村 紹太寺
- 2022年調査
- 著者不明、修復事業の現地案内板、2022年閲覧
- 小田原市教育委員会「稲葉氏一族の墓」現地案内板、設置時期不明、2022年閲覧