立川航空兵 殉難記念碑(たちかわこうくうへい じゅんなんきねんひ)は、小台の西南、県道沼田国府津線から100m余り北にある石碑。台座を含めた高さは約3mで、根府川石が用いられている。碑文の題名は殉職記念碑(じゅんしょくきねんひ)。1932年7月に小台で起きた飛行機墜落事故により死亡した立川飛行場所属の航空兵を追悼するため、事故から1年後の1933年7月に建立された。

富水西北公民館に墜落機の機体の一部が保管されていたが、1978年(昭和53)1月に東京・立川立川自衛隊の資料館に移譲された。

墜落事故

1932年(昭和7)7月23日の午後、厚木方面の上空から異常な爆音を響かせて飛来してきた飛行機が、明神ヶ岳の手前あたりから方向を転換して、きりもみ状態で急降直下し、轟音と共に小台の井上氏所有の水田に墜落した(1)

地元(西北)の青年団と消防団が召集されて周囲を縄で囲み、警察署や立川飛行場へ(電報で)連絡した(1)

遅れて白い落下傘で同乗していた兵士が降下し、大雄山線の線路の西側に着陸して墜落現場に駆付け、所属の連隊や墜落の原因が判明した(1)。また地元の人に緊急処置の指図をした(1)

水田の底深くに突っ込んだ飛行機の胴体は、起重機で引上げられた。操縦士(岩橋之夫(2))の身体はメチャメチャで、上半身は損傷が激しく顔の区別もつかないほどだったが、右手には操縦桿が握られていた。(1)

事故現場の水田は、山北国府津など、遠隔地からも見物人がやって来るほどで、大勢の人が集まり、水田の稲が踏み潰されて、稲葉が見えなくなる程だった(1)

墜落機から引き出された兵士の遺体は、看護師だった小台・蓮乗寺の先代の坊守が処置して、同寺に安置した(1)

同日、立川飛行連隊(陸軍飛行第5連隊(2))から事故処理のため兵隊がやって来て民家に分宿し、翌朝、蓮乗寺で遺体と対面した(1)。連隊は遺体を引取り、破損した機体を分解整理して引上げた(1)。その際に、地元の青年団長だった太田孝之が申し入れをして、プロペラ(木製)と方向舵を記念品として残してもらい、西北公民館に保管した(1)

建碑

事故で殉職した飛行士を追悼するため、西北の地元民によって石碑が建てられた(1)(2)。碑銘によると、建碑は1933年(昭和8)7月23日(事故の1年後)(2)

  • 井上1984:62頁は、操縦士が最後まで操縦桿を手放さず、地上に犠牲者や建物の被害を出さなかった事を讃えるために建碑したとしているが(1)、碑銘には無い(2)

同年10月15日に記念碑の除幕式が行われ、太田が慰霊の辞を述べた(3:80)

(表面)

殉難記念碑

 故陸軍航空兵軍曹 勲8等 岩橋之夫氏、和歌山県有田郡保田村千国の人、平太夫氏の息なり。陸軍飛行第5連隊に属し、性沈勇技能優秀、以て前途を嘱望せらる。然るに昭和7年7月23日午後1時55分、高度飛行演習に際し、突如機械故障を生し、不幸、現場に墜落。氏も亦終に愛機と運命を倶(とも)にせらる。噫、悼(いた)むべき哉。茲に民人相図り、以て殉難国士の盛烈を無窮に伝ふと云爾。

  昭和8年7月23日

      権僧正鏡誉篆額並書

(裏面)

遭難の際、各種団体惣出動、同乗者:半谷曹長、落下傘にて降下、無事。依て現場に来り、注意に伍し、遺骸を蓮乗寺に移し、本隊の将士等急行、来所。近傍寺院読経、一同焼香し、隊の自動車にて帰隊。

   発起人 足柄村西北部一同

資料:(2) 注:一部漢字の誤記を改め、片仮名は平仮名に、漢数字は英数字になおし、句読点を補った。

移転

その後、道路事情や環境の変化に伴い、石碑の位置は2度移された(1)。(3ヶ所の中で)1984年当時の場所が最も事故現場から近い(1)

部品の移譲

1977年(昭和52)の夏に、米軍機が横浜市緑区の住宅密集地に墜落し、(住民に)多数の死傷者を出す事故が起きた(1)

その際に、小台の井上春江は、45年前の事故の操縦士が墜落機と共に事故死したのに比して、米軍のパイロットは脱出して生き延び、墜落機の操縦を放棄したのは無責任だと『朝日新聞』の「声」欄に投書し、それが新聞に掲載された(1)

その夜、立川自衛隊の広報課から井上に電話があり、その際にプロペラと方向舵が西北公民館にあると話したところ、譲渡の要望があった(1)。地元の自治会や事故当時を知る関係者の承諾を得て返還することが決まり、同年秋に自衛隊員が部品を確認しにやって来て、殉職記念碑にも参拝した(1)

1978年(昭和53)1月18日に東京・立川の立川航空自衛隊の講堂で部品の返還式が行われた。前日の17日に自衛隊員と和歌山県有田市在住の殉職した飛行士の兄と兄の?妹夫婦が小台にやってきて西北公民館で「お別れ会」が開かれた。18日当日、自衛隊のジープ2台に10余名が分乗して立川へ移動し、小台からは井上、太田ほか8名が式典に参加。ほかに、殉職した飛行士と同期だった数名と元上官らが参席した。(1)

部品は、その頃新設された立川自衛隊の資料館に、殉職記念碑の拓本と共に展示された(1)

リンク

参考資料

  1. 井上1984:井上春江「立川航空兵殉難記念碑の由来」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、59-64頁
  2. 同書59-60,62頁の碑銘の写しによる。
  3. 平塚昌一・井上春江他「青年団と婦人会 戦前の活動」富水西北史談会 編『富水西北の歴史 第2巻』富水西北公民館、1985・昭和60、77-94頁