紹太寺(しょうたいじ)、長興山は、入生田にある黄檗宗の寺院(1)(5)。本尊は釈迦如来(5)。寛永12年(1635)の創建で、開基は小田原城主だった稲葉正則(元禄9年・1696以降没)(1)(3)。開山は不詳、中興開山は鉄牛(元禄13年・1700没)(1)。江戸時代には山城国宇治郡大和田村(京都府宇治市五ヶ庄三番割)万福寺の末寺だった(1)。
沿革
寛永12年(1635)に、稲葉美濃守正則(法名:先考紹泰居士)が、亡母(法号:長興院)の追福のため、小田原城下・山角町(南町)の北に寺院を建立し、飯泉の新開地100石を齋糧とした(1)(3)(7)。はじめ山号を「麟祥山」と号した(麟祥院は、正則の祖母・春日局の法号)(1)(3)。
しかし、その地は不便だとして、寛文9年(1669)に正則が現在の寺地に移し、仏閣を再建。鉄牛を招請して開山第1祖とした。山号は現在の「長興山」に改められた。(1)(8)
移転先の入生田の寺域の山は、もと「牛臥山」と呼ばれていたが、紹太寺が移転してきてから「長興山」と呼ばれるようになった(1)。
什宝
本尊
本尊は、『風土記稿』には阿弥陀如来とあるが(1)、2022年現在、本堂(かつての子院・清雲院)前にある案内板によると釈迦牟尼仏で、1904年(明治37)頃、伊勢原市の浄業寺から紹太寺へ移されたもの(5)。
同案内板によると、2022年現在、寺には阿弥陀如来像も収蔵されている(5)。案内板には「紹太寺の塔頭、清雲院の本尊を移したものと思われる」とあるが(5)、『風土記稿』には、清雲院の本尊は釈迦如来とされており、旧本堂の本尊かとも思うが、詳細不明(1)。
鉄牛血書の阿弥陀像
寺宝に、鉄牛の血で書かれた阿弥陀(画)像1幅があった(9)。
境内
『風土記稿』によると、当時の寺域は、東西に14町70間(約1,654m)余、南北に10町16間(約1,120m)余あり、旧東海道沿いにあった惣門から、道のり約6町(約654m)余、石段360段を上って堂宇のある場所(主要伽藍)に至っていた(1)。
『風土記稿』は、そこだけが平らな土地で、三方は高い山に囲まれ、木々が鬱蒼と茂っていて、幽邃(ゆうすい、奥深く静か)な土地だった、と評している(1)。
2022年現在、主要伽藍の堂宇は残されていないが、山中に参道と各所の刻銘石が残されている(6)。
山中の見所は、標高の低い方から順に、およそ下記の5つのエリアに大別できると思われる(6)。
- 総門跡と本堂周辺。旧東海道沿いにある総門跡には石柱と石積み、六地蔵が残されている。かつて総門に掲げられていた隠元書の「長興山」の扁額は、今は総門から少し上がった南側にある本堂(かつての子院・清雲院)に掲げられている。
- 石段の参道。石段の参道入り口の「石段公苑」には10体ほどの石像が造立されている。中腹にある石地蔵跡を経て参道を上り、透天橋を渡ると、主要伽藍跡に出る。裏大門の道は、かつての通用路で、階段を上らずに主要伽藍跡へ上ることが出来た道。
- 主要伽藍跡と稲葉氏の墓所。主要伽藍跡には、かつて御霊屋、開山堂、禅堂、仏殿、大方丈、斎堂、庫裡、書院(清浄観)、宝蔵、経蔵、天王殿、鐘楼堂などの伽藍があったが、現在は畑や薮地となっており、所々に刻銘石が残っている。その南西奥に位置する稲葉氏の墓所には、開基・稲葉正則とのその家族の墓、正則の父・正勝に殉死したとされる塚田正家の墓がある。
- 鉄牛寿塔と長興山のシダレザクラ。総門から車道を道なりに西北西へ上ったところに「長興山のシダレザクラ」があり、その少し上にある一吸亭跡から南へ参道を歩くと主要伽藍跡の北側にある鉄牛寿塔に出る。付近の樹叢は小田原市の天然記念物に指定されている。
- 牛臥石へ上る石牛路(登山道)。鉄牛寿塔から主要伽藍跡へ向う途中に石牛路の入り口があり、更に500-700mほど上った所に長興山の旧称・牛臥山の語源となった牛臥石がある。
上記のほか、『風土記稿』に記載があるが、現況未確認の堂宇などには、下記がある(1)(6)。
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少室 - 超宗筆の「水月」の額を掲げていた。像高1尺2寸(約36cm)の観音金像が安置されていた。縁起によると、この像は、漁夫が海中に網をかけて得た閻浮檀金の像で、淘綾郡の二宮明神の神主の家に安置されていたものを、のちに鉄牛に贈ったといわれていた(1)。
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鎮守社 - 太神宮・八幡・春日の3座が祀られていた。神体は弘法大師の作で、はじめ伊豆山の般若院にあり、後に民家に伝わったものを、長興山創建のときに鎮守として祀ったとのことだった(1)。
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弁天窟 - 弁天窟という小さい祠があった(1)。
土砂災害特別警戒区域
紹太寺を含む宮沢川の区域(41021 宮沢川)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(土石流)に指定されている(2012年5月8日 告示第291号)。他にも境内の一部を含む土砂災害特別警戒区域・土砂災害警戒区域がいくつかあるが、数が多いので省略する。(4)
2014年(平成26)には稲葉氏の墓所が倒木によって損壊し、2017年(平成29)8月に修復されている(詳細は記事を参照)。
寺紋
寺紋は「丸に隅切角に三つ引き」(2)。
リンク
- 長興山紹太寺
- 長興山紹太寺
- Instagram 長興山紹太寺
- 二宮篤志「長興山紹太寺遺跡を歩く」note、2019年12月29日
- WSTV(ウォーカーステーションTV) > 人気のウォーキングコース - 小田原 太閤一夜城ウォーキング@神奈川[マップ付き]、2016年10月29日 - 2018年2月3日
- 小田原市経済部観光課「長興山紹太寺 」小田原市公式サイト、2012年3月13日
- 小田原市文化部文化財課「歴史資料・長興山紹太寺の境内絵図」2011年1月24日
参考資料、注記
- 『風土記稿』
- 2019年調査
- 稲葉氏の墓所を参照。
- 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図
- 黄檗宗 長興山 紹太寺「本堂の収蔵品」現地案内板、設置時期不明、2022年閲覧
- 2022年調査
- 飯泉の新開地は、『風土記稿』の頃、「飯泉新田」と呼ばれており、紹太寺の除地となっていた(風土記稿)。
- 『鉄牛語録』に「寛文7年(1667)4月、師在黄檗、7月大檀越閣老稲葉正則居士承旨新開相州城西長興山紹太禅寺、於己酉年(『風土記稿』は寛文9年・1669と推定)臘月(12月)18日、請師進山」とある(風土記稿)。
- 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、p.554