主要伽藍跡(しゅようがらんあと)は、入生田・紹太寺の、石段の参道(もしくは裏大門の道)を上った所にある、かつて紹太寺の主な伽藍が立てられていた平坦な土地(1.1)(2)。2022年現在は畑や薮地となっており、所々に刻名石が残っているが、堂宇は現存しない(2)。
ここから更に参道を上ると稲葉氏の墓所がある。少し北側へ行くと石牛路の入り口があり、更に北へ進むと、鉄牛寿塔がある。(2)
配置図
2022年現在、現地に小田原市教育委員会の案内板があり、配置図が掲載されている(写真)。この図は、弘化5年(1848)の絵図を基にした美原町教育委員会「黄檗宗寺院の伽藍計画に関する研究」の掲図を一部改変したもの(1.1)。
主要伽藍
上の配置図にある主要伽藍について『風土記稿』により解説すると下記のとおり。
御霊屋
稲葉氏の霊屋があった。中央に開基・稲葉正則の像を安置し、その左右に稲葉氏の歴代の位牌が置かれていた(3)。
開山堂(慈昭堂)
鉄牛の木造が安置されていた(3)。また、加藍神達磨の像があり、鉄牛書の「慈昭堂」の額が掲げられていた(3)。書院の北山腹に開山の寿塔があった(3)。
禅堂(心空堂)
観音像を安置していた。隠元書の「心空堂」の額が掲げられていた(3)。
仏殿(大雄宝殿)・月台
本尊・阿弥陀如来。隠元書の「大雄宝殿」の扁額が掛けられていた(3)。
大方丈
参議佐理の筆跡で「方丈」と記した額があった(3)。
斎堂(法喜堂)
緊那羅王像が安置されていた。紹太寺2世・超宗書の「法喜堂」の額が掲げられていた(3)。
庫裡
『風土記稿』には「寮舎」があった、と記されている(3)。
書院(清浄観)
木庵筆の「清浄観」の扁額が掲げてあった。院の中からの眺望がもっとも好く、木庵が題した八景があった。すなわち、西嶺春花、江島螺髻、川崔雨声、数筆遠山、前街夕照、三浦帰帆、東山秋月、湘江雪浪の8つ。それぞれの詩は『風土記稿』の芸文部に掲載されている。(3)
筆架石
書院の庭には巨石「筆架石」があった(3)。
川涯瀑布
書院の北側には沢があり、「川涯瀑布」と呼ばれていた(石牛路を参照)。
宝蔵
経蔵(蔵経閣)
観音像が安置されていた。超宗書の「蔵経閣」の額が掲げられていた(3)。
天王殿(楼門)
「天王殿」と号し、表側に弥勒菩薩、四隅に四天王、裏側に韋駄天が安置されていた。鉄牛書の「紹太禅寺」の扁額が掲げられていた(3)。
鐘楼堂
鐘楼の鐘は寛永13年(1636)に新しく鋳造し、寛文元年(1661)に木庵に銘を請願し、同3年(1663)に再鋳したことが、鉄牛の序文に記してあった(3)。
堂宇の焼失
小田原市教育委員会の現地案内板によると、紹太寺の七堂伽藍は、弘化4年(1847)、安政年間(1854-1860)および明治の火災で焼失したとされている(1.2)。
関連資料
- 桜井敏雄・大草一憲「黄檗宗寺院の伽藍計画に関する研究:法雲寺の建築と伽藍計画を中心として」(大阪府南河内郡)美原町教育委員会、1983年3月
参考資料
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小田原市教育委員会、現地案内板、設置時期不明、2022年閲覧
- 「長興山紹太寺主要伽藍跡」
- 「子院・清雲院(現・長興山紹太寺)」
- 2022年調査
- 『風土記稿』入生田村 紹太寺
- 『新編相模国風土記稿』国立公文書館 内閣文庫 請求番号173-0190 第13冊 コマ49(巻26 入生田村 紹太寺)