総世寺 参道総世寺(そうせいじ)、阿育王山(あいくおうざん)は、久野にある曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。開山は安叟宗楞(文明16年・1484没)。江戸時代には早川海蔵寺の末寺だった。(1)

沿革

開山

『全国寺院名鑑』は、正長元年(1428)に小田原大森氏が伽藍を建立した、としている(5)

『風土記稿』によると、寺伝には、(最乗寺10世)安叟宗楞が足柄下郡(箱根町)塔ノ沢の塔峰阿育王山に草庵を結んでいた頃、久野を経て小田原へ往復していたところ、或る時、久野の修験者から寺院を創建することを勧められた。そこで安叟が試しに地面に楊枝を挿し、その後、この地を巡回したときに見てみると、楊枝から枝葉が生えていた。そこで縁の有る霊地だと悟り、寺院を草創して、旧庵の山名を山号とした。文安2年(1445)のことだった、という。(1)

開創の年代は寛文12年(1672)の久野村の記録にあるが、本寺(海蔵寺)の伝では、開山は安叟の弟子・智海宗哲とされていた(総世寺の伝によると、宗哲は2世)。『風土記稿』は、実際の開山は宗哲で、安叟を招聘して開山としたのだろう、と推測している。(1)

開基

その頃の小田原城主・大森信濃守氏頼入道寄栖庵は、寺への帰依厚く、寺域や山林を寄附した。『風土記稿』のときの寺域96石余の除地は、大森氏頼が寄附した土地といわれていた。(1)

  • 土肥宮上村(湯河原町宮上保善院の伝灯記には、「禅師字安叟、諱宗楞、藤氏也、大森信濃守頼春公の俗弟/寄栖庵之伯父也云々」とあり、大森氏頼は、安叟の甥だったとされている(1)。しかし、安叟の俗姓は源氏ともいう(6)

このため大森氏頼が開基とされていた。位牌には「寄栖庵殿日昇明昇居士、明応3年(1494)8月26日」と記されていたが、本寺(海蔵寺)の位牌では「明昇明照」となっていた。(1)

『皇国地誌久野村誌』は、嘉吉元戊午歳(嘉吉元年は辛酉・1441で、戊午は永享10年・1438)3月28日に大森氏頼が安叟のために伽藍を字居ヶ野屋敷に創建し、寺領350石と民戸若干を寄附した、としている(4)

三浦義同の寄寓

明応3年(1494)に、養父・三浦介時高と不和となった三浦新介義同(のち陸奥守入道道寸)は、三浦を逃れて総世寺で智海宗哲の弟子となり、僧籍に入った。すると三浦家の一門や家臣らも義同の後を追って総世寺に集まり、ついに時高を討った。(1)(3)

  • 六巻本『北条記』からの引用(3):又其比(明応3年・1494頃)三浦介時高入道と子息新介義同不和の合戦ありて、父時高忽に討れにけり。其故何にと問に、(中略。時高には男子がなかったので、上杉高救の息男を養子にして義同と名付け、跡を継がせようとした。しかし晩年になって実子が生れた。時高はその子に家督を継がせようと、義同を討とうとした。そこで、)義同述懐して、髪髻(もとどり)を切て三浦を忍出、相州西郡諏訪原摠世寺(総世寺)と云会下寺へ引籠て、会下僧の姿に成にける、之に依て三浦一門被官の輩、心あるは「時高の作法、義を背けり」と爪弾をして、多以て三浦を退き、義同入道の跡を尋て摠世寺へぞ籠る。
    去程に義同が勢程無く大勢になると聞えければ、義同の実母は大森実頼の女にて、小田原大森式部大輔とも筥根別当とも親き一門なれば、此人々より加勢合力ありしかば、義同威勢を振ひ三浦へとつてかへし、父時高が籠りける新井の城へ押寄、明応九(三?)年九月廿三日夜討にこそしたりけれ。
  • 義同が総世寺へ逃れた理由について、『風土記稿』は、義同の妻が開基・寄栖庵(大森氏頼)の妹だったため、としているが(1)、六巻本『北条記」は「義同の実母は大森実頼の女にて、小田原大森式部大輔とも筥根別当とも親き一門なれば」としている(3)

その後、永正15年(1518)7月に三浦家が滅亡した後、義同の子・荒次郎義意の首を小田原の府下で晒したところ、3年にわたって、その顔は生きているようだった。その時、4世忠室存孝が和歌を詠じて手向けたところ、その首は忽ち成仏して白骨となったという。(1)

  • 『風土記稿』はこの話の出典を『小田原記』としているが、同書にはなく、『北条五代記』巻9(1)「三浦介道寸父子滅亡の事」に、「三年、此首死せず、小田原久野の、総世寺の禅師来て。一首の哥を詠じ給ふ/うつゝとも。夢ともしらぬ、一ねふり。浮世のひまを。あけぼのゝ空。/とよみて手向給へば。眼ふさがり。たちまち。肉くちて。白かうべと成ぬ」とある(2)

遷座

『皇国地誌久野村誌』によると、天正18年(1590)に後北条氏が滅亡した後、11世・心翁のときに(居ヶ野屋敷の)寺領を没収され、その後、文禄元壬辰年(1592)2月、12世・寅摂のときに、伽藍を居ヶ野屋敷から現在の場所(諏訪の原)に移した。またこのとき更に石高96石5斗7升の土地を購入して寺領としたという。(4)

移転後に火災で類焼(5)。1967年(昭和42)、(住職が)義雄のとき、本堂を再建した(5)

総世寺の歴代住職

什宝

本尊

本尊は釈迦如来とされているが(1)(7)、『大日本寺院総覧』によると、別に本堂に阿弥陀如来像が安置されていたという(7)。像高2尺5寸(約75.8cm)、聖徳太子の作と称していた(7)

九条袈裟

  • 1領:地は藕(はす)糸を使って紡織りしたものといわれていた。宛も絽(薄い織物)のようだった。色は萌黄で、篆書のような6文字が金で押されていた。宋の国の天童如浄禅師から永平道元禅師に与えられたもので、それから代々伝えられて、安叟から2世宗哲に与えられたと言われていた。釻(金属製の留め具)の背に安叟の自筆の銘があり、「従天童如浄禅師、的々相承一衣也、今到愚老、附宗哲、文正元丙戌年(1466)臘八(12月8日)総世安叟〔花押〕」とあった(1)

    『皇国地誌久野村誌』には「道元禅師金襴之袈裟」としてみえる(4)
    『全国寺院名鑑』には「開山木像ぐうし袈裟」(蓮糸織)としてみえる(5)

  • 1領:4世忠室存孝の服という。赤地で、純子(紙子、紙で作った服のこと?)に似ていた(1)
  • 1領:大久保氏の人・如法院(俗称は不詳)が寄附したもの。木蘭で染めた麻だった(1)

開山影像

開山影像1幅。開基寄栖庵の筆で、安叟の自讃があるもの。(1)(5)

  • その写し(1):堅不把払柄、横不拈鳥藤、不殺断仏種、不滅却祖灯、道根不染子、禅昧不熟僧、黙検持来了、一箇老宗楞、咦睡後抬頭、看扶桑紅日昇、明昇庵主写予陋質求賛、文明三年龍集辛卯(1471)十月十八日、

絹地で丹青が施されていた。慶安4年(1651?)10月18日に麾下の士・大森信濃守頼直が修装を加えた事が箱に書いてあった。(1)

『皇国地誌久野村誌』には「開山安叟禅師ノ画像」としてみえる(4)

十王并監斎使者画像

十王并監斎使者画像12幅。「嘆十王」と名付けられていた。縁起によると、永正中(1504-1521)に三浦家が滅亡した後、三浦の海中から嗚咽する声が聞こえてきた。漁師が怪しんで網を下ろしたところ、この画幅を得た。そこで北条氏に提出し、三浦氏と縁があるからと総世寺に寄附された、という。(1)

『皇国地誌久野村誌』には「拾王画像」としてみえる(4)

『全国寺院名鑑』には、正平年間(1346-1370)の作、とある(5)

維摩居士像

維摩居士像1幅。北条氏直の筆という。(1)

『皇国地誌久野村誌』には「維摩画像」としてみえる(4)

涅槃像

涅槃像1幅。兆殿司の筆、大久保七郎右衛門忠世が寄附したもの。(1)(5)

『皇国地誌久野村誌』には「釈迦涅槃像」としてみえる(4)

色紙

色紙1枚。4世忠室存孝が三浦荒次郎義意の首に手向けた詠歌で、自筆とされていた。(1)

『皇国地誌久野村誌』には「詠歌一幅」としてみえる。(4)

十六羅漢彩色画像

十六羅漢彩色画像1幅。立3尺1寸(約94cm)、幅2尺2寸4分(約68cm)。絹地絹表装。宋月舜挙筆。寄附不詳。(『風土記稿』になく、『皇国地誌久野村誌』にみえる)

盃1口。永正15年(1518)7月11日に三浦道寸が新井城で最期の宴に用いたものといい、黒塗で、図のような猩々(オランウータン)と扇子・柄杓などの蒔絵が入っていた。円径は5寸3分(約16cm)で、碁器底(碁笥底、碁石の入れ物のように底が平たい器)だった。

  • 北条五代記』巻9(1) 「三浦介道寸父子滅亡の事」に、「今生の名残たゞ今なり。酒を酌んと。道寸杯をひかへ給ひければ。(佐保田)河内守。君が代は。千代にや千代とうたふ。荒次郎扇を取て、君が代は。千世にや千代もよしやたゞ。現のうちの。夢のたはふれ。と舞給へば。彦四郎も同く立て。つれてまふ。実(げに)あはれなる一曲一かなで」とある(2)

『皇国地誌久野村誌』には盃2個としてみえる(4)

古文書

古文書1通。天正3年(1575)11月に北条氏直が発出した文書で、焚燼の片紙(焼け残った紙片)のため、その文意がよくわからなかった。この外にも古文書数通を所蔵していたが、火災で焼失したとされていた。(1)

『皇国地誌久野村誌』にも「北条氏直虎印ノ書」としてみえる(4)

梵鐘

鐘銘の序文によると、応永15年(1408)に新鋳して、永禄元年(1558)に某社に寄附したものを、天正18年(1590)の小田原の陣のとき、羽柴中納言秀次が総世寺に寄附したもの(1)。序銘の写し:

応永15年新鋳 当宮由来未有捷椎之具、乃今範金為鐘、以粛清衆、斎教令、和神人、賛幽明、其施不亦博乎、因作銘曰、天地槖籥、万物為銅、元気磅礴、流形不同、鳴鐘之設、其器惟洪、乃撃乃考、発蔀発蒙、梵音浩々、応而無窮、尽教聞者、証入円通、応永十五年戊子(1408)十二月十三日、別当法印聖山、大工毛利常吉、
永禄元年寄附 当社寄附旦那、生田若狭守藤原重吉、維永禄元年戊午(1558)十一月廿一日、
天正18年総世寺に寄附 相模州足柄下郡早川庄久野村阿育王山総世寺什物、羽柴中納言寄附之者也、天正十八年庚刁年(1590)七月廿一日、当山現住心翁宗伝和尚代、

境内

『風土記稿』によると、境内に、(本堂、庫裡のほかに)衆寮、弁天社、稲荷社、飯綱社、山門廃跡、総門があった。総門の門外に貞享4年(1687)の領主の制札が建てられていた(1)

1916年当時、境内は4,475坪(約121.6m四方)、本堂は桁行10間(約18.2m)、梁間8間(約14.5m)(7)。本堂左手に庫裡・弁天堂、右手に禅堂(7)

1970年当時、境内は1,209坪(約63.2m四方)、建物は本堂98坪(約18m四方)、山門、庫裡、開山堂、宝物庫(5)

大森氏頼の墓

境内に大森氏頼の墓があったが、後世に建立したものだった(1)

楊枝柳

『風土記稿』のとき、本堂西側に生えていた周囲8尺(2.4m)の柳の木は、安叟宗楞が地面に挿した楊枝が成長したものといわれていた(1)

万年松

総門の内側に、三囲ほどの松の木があった(1)

総世寺のカヤ

花立松

総世寺 入り口脇の松の木大門の入り口に、それぞれ三囲ほどの2株の木が並んでいた。4世忠室が、三浦義意の首に松の樹と桜の花を折って手向け、歌を詠じてから、その2種類の木の枝をこの地に挿したところ、枝葉を生じたものといわれていた。桜の木は少し昔に枯死したと言われていた。(1)

寺紋

山門屋根主棟の寺紋(二つ巴)

寺紋は(左)二つ巴。(2019年調査)

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参考資料

  1. 風土記稿
  2. 『仮名草子集成 第63巻』東京堂出版、2020、28-33頁
  3. 『北条史料集』人物往来社、1966、27-28頁
  4. 田代道彌「皇国地誌久野村誌(草稿本)の発見」『おだわら 歴史と文化』第13号、小田原市役所企画部市史編さん課、2000年3月、41-42頁
  5. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.421
  6. 稲村坦元『曹洞宗人名辞典』国書刊行会、1977、p.130
  7. 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、p.575