蓮上院(れんじょういん)、花木山満願寺は、浜町2丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は地蔵菩薩(7)。建長6年(1254)、僧・実証の創建。江戸時代には京都・東寺宝菩提院の末寺で、関東34院の1つ、法談所(僧侶の養成機関)だった。小田原城の艮(うしとら、北東)の守りの祈願所とされ、古くから城主の庇護を受けた。(1)
沿革
建長6年(1254)に僧・実証により創建された。創建当初は「聖智院」と号した。寛正の頃(1460-1466)「修蔵院」と改号し、文明年間(1469-1487)に今の院号に改めたといわれていた。(1)
- 蓮上院所蔵の永禄11年(1568)の文書に「修蔵院」とあり、また『小田原記』(『風土記稿』は5巻本1種『北条記』の内閣文庫(林大学頭家旧蔵)本を参照しているとみられるが、6巻本にもあるため、以下6巻本から引用する)には大永二年(1522)・元亀元年(1570)の記事などに「蓮乗院」の名でみえ(後出)、寺伝とは食い違っている。(1)
蓮上院は、古くから小田原城の艮(北東)の守護の祈願所とされ、堂宇以下、仏具などに至るまで城主が修造していた(1)。
6巻本『北条記』に、大永2年(1522)9月より後に当時の蓮乗院の住職(寺伝によると13世・亮海、大永7年・1527没)が北条氏綱の命によって江ノ島弁財天を城内に勧請したことがみえる(1)(2.1)。
大永2年(1522)9月之初、古河の御所へ御使者として富永三郎左衛門被遣しに、富永其帰りに、武蔵の浅草へ参詣しけるに、観音の縁日18日の事なれば、人常よりも群聚せり。殊更不思議なる事あり。弁天の堂の辺より銭涌出るを、寺僧ども制しけれども、参詣の人是を不用、多く此銭をとる。 富永もきい(奇異)の思を成し、帰参りて後此事を言上す。氏綱を初め諸人不思議と云処に、蓮乗院被参ければ、家老の面々此由を語る。法印申されけるは「(・・・)」と委く演説す。 依之、当座しこうの大名小名一門家中、皆信心の首を傾け、彼浅草へ種々の所願を懸られたり。 亦御城北の堀の内へ則法印を以て江の島の弁財天を移し、当城の鎮守と崇め奉り、武運長久を祈られけり。今の弁財天の宮是なり。〔私に曰く右衛門佐殿屋敷の向にあり〕 六巻本『北条記』巻2(14)「浅草沙汰之事」(2.1) |
詳細は『風土記稿』の小田原城の項を参照。(1)
また同書によると、元亀元年(1570)の秋に、北条氏康が病に悩まされたとき、「百座の祈念」を行った(がその甲斐なく氏康は同年死去した)(1)(2.2)。
元亀元年(1570)秋の比より、氏康御病気にて様々療治有といへども、更にかひなく、日々に重らせ玉ふ。箱根山の別当(金剛王院)、国府津の護乗堂(護摩堂、宝金剛寺)、花本(木)の蓮乗院にて百座の祈念、其外方々の立願ありしかども、定業や来けん、元亀元年十月三日、御歳五十六にて逝去あり。 六巻本『北条記』巻4(9)「氏康薨姓逝之事」(2.2) |
(推定)天正元年(1573)に北条氏政が下総国関宿城を攻め、佐竹義重が後詰として発向して氏政と対陣したとき、安藤豊前守良整・板部岡江雪斎融成・笠原越前守康明が連署して蓮上院で武運勝利の祈祷を修せさせたことを示す所蔵文書があった(1)。その写し(1):
当御陣既御帰馬之砌、佐竹出張故、折返于今御対陣候、任吉例、御武運勝利之御祈念被成之、巻数可有御進上候、為其申届候、恐々謹言、六月五日、良整、融成、康明[それぞれの花押] |
天正3年(1575)11月に蓮上院で灌頂執行に関する制札があった(1)。
従来廿八日、於当寺五日、灌頂修行由尤候、若横合非分之族有之者、不及用捨、可有披露、可処厳科者也、乙亥(天正3・1575)十一月十四日、蓮上院、江雪奉之、[虎朱印] |
什宝
仏像
『風土記稿』には、本尊は大日如来とあり、ほかに伝弘法大師作の地蔵像、伝弘法大師自筆の弘法大師絵像が安置されていたとある(1)。
『全国寺院名鑑』によると、1970年当時の本尊は伝源信作の地蔵菩薩(7)。ほかに伝円珍作の不動明王像、松原明神の本地仏とされていた十一面観世音菩薩像があった(7)。
古文書
古文書6通。うち2通は前記のとおりで、2通は地蔵堂(子安地蔵)の項を参照(1)。
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(年未詳)北条氏康(太清軒)から幻庵への書簡
一昨日者遂面上候、仍御前御煩一昨日朝より豊前療治被申候、彼薬相当、自昨日熱気散候、殊夜中今朝者、すきと能候、然に産之脈証、自今朝出来、腰腹心も其分に候/無力御入候、時分窮屈に候、雖然今度之煩、能時分得減気 不思議仕合候、祈祷今日結願候、又誕生平安之祈念、可申付候、箱根正恵坊、学者之由候、其分□候哉、然者明日巳刻以前、被下候様、今夜中使を可被指上候、自此方者、無案内候間、其方へ申候、恐々謹言、七月朔日、氏康拝
『風土記稿』は、このとき蓮上院でも祈祷を修したので、この書簡を所蔵しているのだろう、としている。また氏康は「万松軒」と号したといわれており(出典未詳)、ここで「太清軒」と記しているのはそれと異なる、としている。(1)
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(年不詳)幻庵の書簡
(表書)蓮上院同宿中、幻庵宗哲
当年者無登山候間、不能面謁候、仍山中御居住之事、先年頼入候処、有其分祝着候、無際限可申、如何に茂、僧正蓮上院御相続被仰置候、是又難打置候、及承候者、客殿思召立の由尤候、御大儀察入候、旁自当年、花木にしかと御居住被定、修理被成、無大破様、可有之候、箱根へも申遣候、但僧正御よしみも候へば、節々院家御覧じ可被廻候頼入候、猶口上申含候、恐々謹言、三月二日、宗哲[花押]
尚以申候、箱根一坊跡も、御堪忍分ほども候所候はゞ、始末御逗留をも申度候へ共、只今左様之処無之候間、不及了簡候、某事もへや住に候へば、何事も存絶許候、□口惜存候、
その他に、宮前町(本町2)の西光院が本寺(蓮上院)について述べた書状と、宝菩提院および駿河国の役寺・円光寺から大久保忠隣への書簡が2通あった(1)。
ほかに『小田原及箱根史料』にも4通が見える(3)。
小田原市文化部文化財課によると、明治2年(1869)の神仏分離令により本町2丁目の松原神社から玉滝坊と西光院が分離されたときに、その什宝や古文書類も蓮上院の所有となったといい、1976年(昭和51)に古文書15点が文化財指定を受けている。(4)
境内
境内にあった地蔵堂と護摩堂は、文化14年(1817)に火災で焼失した後、『風土記稿』の頃も再建されていなかった。どちらの本尊も本堂に安置してあった。(1)
1970年当時の境内は647坪(約46m四方)、建物は本堂が50坪(約13m四方)、庫裡87坪(約17m四方)、摩利支天堂(7)。
子安地蔵
境内に地蔵堂があり、子安地蔵と称していた。地蔵菩薩像は像高2尺5寸(約76cm)で、恵心の作とされていた。(1)
永禄11年(1568)3月の造立で、蓮上院が北条氏政の内室の平産の祈祷を命じられ、願いが叶ったお礼として建てられた(1)。所蔵文書の写し(1):
地蔵堂建立之由尤候、若横合非分之子細有之者、速可被遂披露状如件、永禄十一年戊辰(1568)三月廿六日、修蔵院、江雪奉之、[虎朱印] |
また、地蔵堂は、後北条氏から、天正16年(1588)7月以降、仏供料として毎年12貫文の寄附の申出を受けている。所蔵文書の写し(1):
建立之地蔵、為仏供料拾弐貫文宛、従当年毎年、中村五郎兵衛前より可被請取候、若渡手至于無沙汰者、可有披露旨、被仰出者也、仍如件、天正十六年戊子(1588)七月廿七日、蓮上院、江雪奉、[虎朱印] |
寺伝には、12貫文の仏供料は、中村郷の小船村から納めるべきとの内容に、北条氏政が朱印を与えた、とされていた。『風土記稿』は、中村郷小船村の名主を「五郎兵衛」というので、その人の事だろう、と推測している。(1)
護摩堂
境内に護摩堂があった。本尊は不動明王で、像高3尺5寸(約106cm)。智証大師の作とされていた。(1)
大鐘
境内の鐘は承応3年(1654)に鋳造した鐘だった(1)。
天神社
境内に天神社があった(1)。
子院・宗玄寺
享保19年(1734)に焼失した後、再建されていなかった。本尊の薬師如来は恵心の作とされ、『風土記稿』のとき蓮上院の本堂に安置してあった。(1)
豊田正作の墓
境内の山田家の墓域内に、二宮金次郎の仕法に反対した小田原藩士・豊田正作の墓があり、映画『二宮金次郎』実行委員会の万葉倶楽部(株)(高橋弘会長)と九転十起人生塾(田嶋亨塾長)の企画で案内板が設置され、2020年(令和2)2月6日に案内板のお披露目と墓前供養が行われた(5)。
年中行事
寺紋
参考資料
- 『風土記稿』
- 萩原龍夫(校注)6巻本『北条記』『北条史料集』〈戦国史料叢書 第2期 第1〉新人物往来社、1966
- 「蓮上院文書」石野瑛『小田原及箱根史料』〈武相叢書 第4編〉武相考古会、1932・昭和7、No.25~
- 小田原市文化部文化財課「古文書・蓮上院文書」小田原市公式サイト、最終更新 2013年5月31日
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豊田正作関係
- 「“金次郎のライバル”の墓前に案内板を設置 「豊田正作」の功績を知って」まちの情報紙ポスト、2020年2月21日
- 「報徳仕法の隠れた偉人に光 豊田正作の墓碑に案内板」タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2020年2月29日号
- 宇高良哲「近世初期の関東古義真言宗の本末制度の一考察」『印度学仏教学研究』vol.25 no.2、1977年3月、pp.330-333
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.418
- 「平成の大改修 小田原城天守閣 リニューアルオープンまであと15日」タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2016年4月16日号