蓮乗寺(れんじょうじ)、華台山法学多聞院は、小台にある浄土宗の寺院。本尊は三尊阿弥陀。宝徳元年(1449)に伝公(良蓮社頼誉、文正元年・1466没)により創建された。江戸時代には足柄上郡沼田村・西念寺の末寺だった(1)(6)。
浜町の蓮上院(歴史的に「蓮乗院」とも記される)とは別の寺院。
沿革
寛文12年(1672)の『足柄下郡小台村明細帳』には、山院号「花台山蓮乗院」とあり、開山は頼誉和尚という僧侶で、宝徳元年(1449)の開山、寛文12年(1672)当時の住持は7代目とされている(6:12-13)。『風土記稿』には「蓮乗寺 華台山法学院」とあり、同年、伝公(良蓮社頼誉、文正元年・1466没)の創建とされている(「僧公」は翻刻の誤りとみられる)(1)(2)。
10世・単誉上人の手記によると(7)、正徳2年(1712)の洪水で堂宇が流失したため、年貢地として所有していた現在地(旧地から5町(約550m)ほど離れている(3))に境内を移して堂宇が再建され、旧地は墓地として残された(1)(3)(7)。
寛延3年(1750)、11世・単誉白順のとき、火災で本堂・庫裡を焼失した(3)(7)。
宝暦9年(1759)4月、捜誉白順のとき、三河国渥美郡赤羽村誓覚山光明寺弟子・捜誉上人が願主となって、薬師堂が立てられた(7)。棟札には「西栢山村大工田代利兵衛」と記されてあった(7)。
寛政9年(1797)、15世・捜誉智秀のとき(3)、焼失から47年ぶりに本堂が再建された(7)。棟札によると、棟梁は岩塚清右衛門、大工は岩塚清左衛門、市川藤右衛門、小林彦右衛門、石井利左衛門、瀬戸半六(7)。本堂再建に伴って薬師堂は解体され、薬師三尊仏は本堂に移された(7)。
天保4年(1833)に綾部紋蔵が願主となって山門が再建された(7)。棟梁は、西栢山村岩塚清左衛門直盈で、清右衛門友安の子(7)。
慶応元年(1865)7月ないし慶応2年(1866)、22世・願誉天慈のとき、筆子(寺子屋)の収益により庫裡を再築した(3)。
1910年(明治43)に大規模な修理が行われた(7)。
1930年(昭和5)に大規模な修理が行われ、茅葺の大屋根が亜鉛板葺に改められた(7)。世話人は綾部粂次郎、市川慶助、石井安次ら(7)。
1934年(昭和9)の足柄騒擾事件の際には、事件の直前に飯田岡・堀之内の反対派住民と足柄消防組の集会が行われた(11)。
戦後、農地法改正により水田7反(約0.7ha)を失った(3)。
時期不定で(1962年以前に)院号は「法学院」から「法学多聞院」に改められた(1)(3)。松蔭1984は、同寺で多聞天を祀っていたことから、そう呼ばれるようになったのだろう、としている(7)。
1982年(昭和57)に境内地の拡張・造成が行われ(3)、また山門が再建された(7)。
什宝
本尊
本尊は、寛文12年(1672)の『足柄下郡小台村明細帳』に「阿弥陀木仏」とあり(6)、『風土記稿』によると、高さ各1尺7-8寸(約51.5-54.5cm)の三尊阿弥陀像で、定朝の作と伝わる(1)。1962年の『浄土宗神奈川教区寺院誌』には「阿弥陀如来(伝定朝作)」とあり(3)、1984年時点でも本尊が座像、脇士が立像の阿弥陀三尊とされている(7)。
薬師如来像
寛延3年(1750)に火災で堂宇が焼失した後、宝暦9年(1759)に薬師堂が立てられたが(7)、寛政9年(1797)に本堂が再建された際に薬師堂は解体され、薬師堂に祀られていた薬師三尊仏(平安期、伝空海作(4)(7))は本堂に移された(7)。
弥勒菩薩像
昭和期(1926-1970)、横田七郎の作(4)。
昭和子安観音
1984年当時、本堂の右傍に祀られていた観音像は、昭和子安観音菩薩と称し、1980年(昭和55)に造立されたもの(7)。木造で、台座を含めた像高は9尺(約2.7m)、京都山科の松久朋琳・宗琳父子の作(7)。
書画
掛軸は、綾部粂次郎の寄進によるものが多く、その中に、木食観正の直筆といわれる掛軸や、唯念の六字名号も含まれていた(9)。
涅槃図の掛軸は、天保8年(1837)2月15日開眼供養(のとき製作されたもの)、世尊降誕之図の掛軸は、弘化3年(1846)3月30日開眼供養(のとき製作されたもの)で、沼田・西念寺の17世・法誉が、同寺19世僢誉(を通じて?)、蓮乗寺21世・遠誉知玄に授けたもの(9)。
境内
1970年当時の境内は737坪(約49m四方)(4)。
1982年(昭和57)に檀信徒の700万円近い寄付と、市川要による土地の提供により、83.95坪(約277.5m2)の境内地の拡張・造成が行われた(5)(7)。
本堂
江戸中期(寛政9年・1797(7))の建立で(3)(4)、唐破風造(3)。大屋根は1930年(昭和5)の修理のとき茅葺から亜鉛板葺に改められた(7)。
建坪は、1962年当時44.5坪(約147m2)(3)、1970年当時45坪(約149m2)(4)。
庫裡
1962年当時の庫裡は、慶応元年(1865)7月ないし慶応2年(1866)の建立で、方形造(3)。39.6坪(約131m2)(3)。
1970年当時の庫裡は、1964年(昭和39)の碓井隆次による建立で、43坪(約142m2)(4)。
山門
山門は、寛延3年(1750)の火災による堂宇焼失の後、天保4年(1833)に綾部紋蔵が願主となって再建された(7)。
その後、強風や震災による倒壊被害に遭って、その度に修繕され、柱の根つぎや屋根替えによって(7)、1960年代には江戸期に造立された山門として現存していたが(2.0坪、約6.6m2)(2)(4)、1982年(昭和57)に平塚昌蔵が願主となって再建された(7)。
六字名号塔
本堂正面にある名号塔は、正面に「南無阿弥陀仏」の六字名号と六地蔵が彫られており、裏面には「善導大師千二百五十年遠忌記念、蓮乗寺廿三世実誉慎誠代。造立功徳主綾部粂次郎八十三翁昭和六年(1931)三月十四日建之」と刻されている(9)。
位牌堂
境内の位牌堂は、1930年(昭和5)以降、1982年(昭和57)以前に建立された(7)。
毘沙門天
1984年当時、境内に毘沙門天が祀られていた(7)。
三界万霊等の碑
正面中央に「三界万霊等」、左右に「元禄六癸酉(1693)十一月十三日」「法誉比丘惟丘」と刻された石碑は、過去世、現世、来世にわたる全ての霊の供養のために立てられたもの(9)。
阿弥陀仏像
境内の阿弥陀仏像は、寺内では最も古い石仏で、後背の右側に「奉造立阿弥陀仏像念仏講供養所結衆四拾八人小台村華台山」、左側に「于時寛文六丙午天(1666)十月十五日蓮乗院願主法誉達伝比丘代敬白」と刻されている(9)。「法誉達伝」は当時の住職で、元禄15年(1702)没(9)。念仏講(百万遍念仏)は、1985年当時も続いていた(9)。
観音(弥勒)菩薩像
左手を頬にあてた思惟の相をしている弥勒菩薩の石造は、台座の下に「観音講中」右側に「享保十二丁未(1727)八月二十一日」左側に「小台村蓮乗寺願主単誉代」と刻されている(9)。当時の住職の発願から、観音講中の人々の寄進によって造立されたもの(9)。観音講は、1961年(昭和36)頃、念仏講と合流した(9)。
六地蔵
境内の六地蔵は、天保5年(1834)、21世・遠誉知玄の代に建立されたもの(9)。別に1体は、3代目・綾部紋蔵が、祖父母にあたる初代紋蔵夫妻を供養するために造立した(9)。
年中行事
施餓鬼
1985年当時、毎年8月3日に行われていた(8)。
だるま市
推定1982年頃から、毎年12月18日に境内でだるま市が開催されている(10)。毎月18日は観音菩薩の縁日で、だるま市は12月18日の納め観音の宵に併せて催されている(7:19)。
寺紋
寺紋は本堂屋根に「丸に卍」、賽銭箱・掲示板に月影杏葉、山門に抱き茗荷。(2019年調査)
リンク
- 「小田原市小台 蓮乗寺のだるま市」小田原の端々、2012年12月18日
- 「小田原市小台 蓮乗寺のだるま市」小田原の端々、2013年12月18日
参考資料
- 『風土記稿』
- 『新編相模国風土記稿』国立公文書館 内閣文庫 請求番号173-0190 第17冊 コマ50(巻35 小台村 蓮乗寺)
- 大橋俊雄『浄土宗神奈川教区寺院誌』神奈川教区教務所、1962、pp.302-304
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.419
- 総代世話人檀中一同「境内造成記念之碑」現地案内板(石碑)、1982年12月、2022年閲覧
- 市川幸雄「昔の小田原と西北4部落の成立」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、10-16頁
- 松蔭1984:松蔭徳誠「小台 蓮乗寺(沿革と縁起)」同書17-21頁
- 綾部1985:綾部寿美子ほか「年中行事」富水西北史談会 編『富水西北の歴史 第2巻』富水西北公民館、1985・昭和60、126-133頁
- 松蔭徳誠「蓮乗寺の石仏」同書44-49頁
- 綾部1985:132頁に、3年前からだるま市が立つようになった、とある。なお、同書は12月17日の項に記載しているが、開催日は松蔭1984や2010年代の開催状況(詳細はだるま市を参照)からして、12月18日と思われる。
- 「足柄村騒擾事件」神奈川県警察史編さん委員会 編『神奈川県警察史 中巻』神奈川県警察本部、1972、380-387頁