蓮昌寺(れんしょうじ)、妙珍山円成院は、本町4丁目にある日蓮宗の寺院。本尊は、三宝諸尊および大黒天。開基は北条氏政の家臣・浜田時成。江戸時代には鎌倉比企谷・妙本寺の末寺だった。(1)
縁起
『風土記稿』によると、寺伝に開山は九老の1人、形善院・日澄(文保元年・1317没)で、文永11年(1274)5月に日蓮が身延へ入山する際に、浜名豊後守時成の館に投宿し、時成は有難いと喜んで出家し、妙音院日行と号した。時成は永仁6年(1298)2月5日に尾張国熱田で死去した。子供が1人あり、祖母・妙珍尼に養われて7歳で出家し、日澄と号した。この日澄がその祖父・蓮昌、祖母・妙珍の菩提のために蓮昌寺を開き、祖父母の法号を山・寺号にした、とされていた。(1)
しかし、『風土記稿』は、浜田時成は北条氏政に仕えた人で、鎌倉小町・大巧寺の檀那で、天正3年(1575)2月に時成が大巧寺に寺領を寄進したときの券状が同寺に伝わっており、また墳墓もあって、法名:妙法といい、その子・蓮真、母・妙節の碑などもあることから、寺伝が時成を日蓮の弟子としたり、日澄をその子としたりしているのは、妄説も甚だしい、としている(1)。
また日蓮が当宿した旧跡という伝も、『注画賛』には(文永11年・1274)5月12日に酒匂、13日に竹之下(静岡県駿東郡小山町)に止宿したことがみえるため、誤りと解釈し、浜田時成が開基とすれば、元亀・天正(1570-1592)の頃の創建になるが、それを往古の(日蓮の)事蹟に強引に結び付けたのだろう、と解釈している(1)。
『日蓮宗大観』には、「開山日澄上人、創立元亨元年(1321)九月創立」とあるが(2)、『風土記稿』にある寺伝では日澄は文保元年(1317)に没したとされている(1)。
仏像
本尊の大黒天像は、像高3寸5分(約10.6cm)。また像高7寸(21.2cm)ほどの、日法作の旭祖師像が安置されていた。
境内
番神・妙正合社
鐘楼
鐘楼の鐘は享保2年(1717)の鋳造(1)。
子院・清心庵
境内に子院・清心庵があった(1)。
寺紋
寺紋は日蓮宗橘。(2019年調査)
リンク
- 紋谷幹男「第1698回 蓮昌寺(れんしょうじ)日蓮宗/神奈川県小田原市本町」『お宮、お寺を散歩しよう』2015年8月5日
- おかチャン「小田原城下の梅を愛でながら寺院を散策。」4travel.jp、2015年2月21日
- 近ちゃん、龍の彫り物と絵画 > 目次 > 副隊長のホームページ > 龍の彫り物 > 「小田原・蓮昌寺・御手洗」、2002年4月21日
- 池田博明・佐藤伸一・稲葉茂代「小田原市内4箇所の社寺林(蓮昌寺・大蓮寺・真福寺・大稲荷神社)の真正クモ類」『神奈川自然誌資料』No.8、1987年3月、pp.99-105
- 「神奈川龍めぐり後編 第17回 小田原2( 全10回)一般参加可」小田急まなたび、更新時期不明