西光院(さいこういん)、松原山南勝寺は、本町2丁目にある東寺真言宗の寺院。松原明神社供僧。本尊は不動明王。往古は東寺(塔中)宝菩提院の直末(直属の末寺)で、『風土記稿』のときは大工町(浜町)・蓮上院の末寺だった。(1)
沿革
『箱根(権現)縁起(絵巻)』によると、文武天皇(在位697-707)の時、玄昉僧正が箱根・芦ノ湖室河津に創建し、当初は西光寺と号した。のちに行基が「西光院」と改めたという。(1)
寺伝によると、天文年間(1532-1555)に北条氏綱が、松原明神の社中に寺院を建立して法楽を執行させようと、箱根の金剛王院41世・融山僧正に相談して西光院を小田原へ移し、「松原山南勝寺」の山・寺号を命名したといわれていた。このため、融山を西光院の開基と称していた。(1)
- 西光院所蔵の、天文8年(1539)7月に氏綱が社領を寄附した際の書状に、「相州西郡之内松原明神社中供僧西光院」とあった(1)。
元亀2年(1571)に住職の圓盛が、武州都筑郡(川崎市麻生区)の王禅寺に鰐口を寄進している(1)。
- その鰐口には、「奉寄進、相州小田原西光院圓盛、武州星宿山王禅寺常住元亀二年(1571)十二月吉日」と題してあった(1)。
中興は泉雄(寛永7年・1630没)といった(1)。
小田原落城の頃、大久保七郎右衛門忠世が少しの間、寓居していた(1)。
- 『石川忠総留書』に、「石垣山より太閤奥州へ御発向は、八月二日三日頃、八月十四五日時分か、大久保七郎右衛門、上総の万木より御呼帰し、七郎右衛門西光院に被居、太閤七郎右衛門を石垣山へ御呼、御直に石垣山城を御渡被成候云々」とある(1)。
蓮上院所蔵の、宝菩提院から領主・大久保相模守への書翰に、「蓮上院并西光院両寺之儀、当院直末之義候云々」とあり、この頃は宝菩提寺の直末だったとみられている(1)。
什宝
仏像
本尊の不動明王像のほかに、明神の本地仏である聖天十一面観音を安置していた。像高1尺2寸(約36.4cm)、閻浮檀金の秘仏とされていた。(1)
古文書
古文書13通が寺宝とされていた(うち8通については松原神社の項を参照。以下、残りの5通の解説)。(1)
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(年不詳1月8日)護摩修行料を渡す印状(1)(2)
弐拾壱俵一升五合、
護摩壇御薬以下御公用共、 以上、 右自渡辺五郎左衛門前、今日被請取、今日中相調、自明日始御祈祷可被申者也、
[朱印]正月八日 南条四郎左衛門奉之
西光院
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(午年4月7日)祈祷施襯(襯施・信施)の書(1)
弐拾貫文、御祈祷御布施、此米六拾一俵四升、一俵別三斗六升俵、右諏訪部・中村両人より可被請取之、若升之上無沙汰儀有之者、披露可被申者也、午四月七日、西光院[朱印] -
(午年9月17日)一七日(初七日)の護摩修行に必要な費用を渡す奉書(1)(2)
護摩一七日之入目、
此米七俵二斗五升三合、
弐貫五百文、薬種之代、此員数者、去正月三七日御祈念之時之如員数候間、其分に候、 此米六俵四升八合、
弐貫八文、
護摩壇之道具代、 七俵七升三合、 僧衆斎非時画共、 以上弐拾壱俵一升五合、 右御陣御祈祷之護摩、一七日之公物、西光院如書立可渡申由、被仰出間今日中可被請取者也、仍如件、
[朱印]午九月十七日 南条四郎左衛門奉之、
西光院、
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(丑年12月26日)鷹部屋祈祷のことを記載した書状(1)(2)
西光院御鷹
部屋之御祈祷
銭、壱貫五百文、
自関前可出
者也、仍如件
[虎朱印]丑十二月廿六日、
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(年不詳11月9日)西光院の継承にあたり、(北条)幻庵が(板部岡)江雪斎に与えた文書(1)
(表書)江雪斎参
西光院次目之御判形申請度由候、就中当社御寄附之御供領伊羅窪分、并御造営領河原新田、御判形杉栖院于今預り被置候、種々懇望候得共、拘借候而不被相渡候間、以次請取申度由候、次目之御判形于今不申上候、申請度候由候、彼仁西光院江僧正御契約之砌、某助言申候、因茲彼院江仕付候時も、色々互申事候間、某令助言、于今住持職無異儀候、以此因被頼候間、可然様有御取合次目御判形被申請可給候、并御寄進之先御判形、当院主へ被渡様可然候、悉皆御馳走に相極候、恐々謹言、十一月九日、宗哲[花押]
小田原市文化部文化財課によると、明治2年(1869)の神仏分離令により松原神社から玉滝坊と西光院が分離されたときに、その什宝や古文書類も蓮上院の所有となっており、1976年(昭和51)に蓮上院の古文書15点として文化財指定を受けている。(4)
宮殿
宮殿は氏綱が寄附したといわれていた(1)。
院内社
寺紋
寺紋は三つ鱗。(2019年調査)
参考資料
- 『風土記稿』
- 「西光院文書」石野瑛『小田原及箱根史料』〈武相叢書 第4編〉武相考古会、1932・昭和7、No.12~
- 小田原市文化部文化財課「古文書・蓮上院文書」小田原市公式サイト、最終更新 2013年5月31日