誓願寺 入り口誓願寺(せいがんじ)、湘王山(2)(『風土記稿』「妙香山攝取院」(1)は、浜町1丁目にある浄土宗寺院。本尊は三尊阿弥陀。開山は、伊勢国出身の鎌倉光明寺の学徒・寂誉摂果(永禄12年・1569没、享年88)で、寺伝によると、安藤良整の請願により北条氏康から寺地を下され、永禄6年(1563)に堂宇が落成したという。2世・魯水は江戸の誓願寺の開基となった。江戸時代には京都・知恩院の末寺だった。(1)

沿革

縁起

『風土記稿』の頃、浅草にあった江戸・誓願寺の寺記では、浜町の誓願寺の開山は見誉善悦とされている(1)

宝永7年(1710)に7世・真誉が記した本尊の縁起によると、伊勢の人・摂取院誓誉妙香尼とそれに従う妙祐という尼僧が諸国巡歴のときにたまたまこの地に寓宿した。妙香尼らは以前から運慶作の阿弥陀如来の首を護持していたが、夢でお告げがあって、明朝、1人の僧が来るだろうから、彼を導師としてここに寺院を建立しなさいとのことだった。果して翌朝、僧・摂果がやって来たので、妙香尼らは摂果に相談して、阿弥陀如来の首を託し、摂果は承諾して万町(浜町3)のあたりに草庵を結んだ。永正3年(1506)3月17日のことだったという(1)

  • 『全国寺院名鑑』には、永正元年(1504)のこととされている(6)

その後、北条氏康の家臣・安藤豊前守良整が摂果に帰依した(1)。あるとき、摂果が良い土地を選んで寺院を建立したいと前々からの願いを述べたので、良整は氏康に言上して、今の寺地を与えられた(1)

永禄6年(1563)4月上旬に堂宇が落成した(1)。この時、氏康に仕える女官が協力して、阿弥陀如来の体を造立することになった(1)。そこで鎌倉長勒法眼宗珠が体を彫刻して、女官からの手紙を腹籠とした(体の中に入れて置いた)(1)。その文の写し(1)

今度如来御さいかうに付、金子并銀1貫700目、しんし参らせ候、いの(永禄6癸亥・1563)四月廿四日、せいくわん寺和尚、つほねより、

この手紙は、真誉が再興にあたったとき初めて見つかった〔云々〕と記録されていた(1)。この阿弥陀如来像は、『風土記稿』のときには厨子に納めて、本尊の側に安置されていた(1)。像高は2尺5寸(約76cm)(1)

庭林坊一本傘の事

三浦浄心北条五代記』によると、天正元年(1573)3月に、小田原の浦に現われた4・5艘の釣舟をみて、「海賊が来た」と町が騒ぎになったとき、誓願寺の僧・庭林が折からの小雨にから笠をさして見物に出ていた。そこへ馬乗の武者がやってきて、釣舟に対して名乗りをしたのに、反応が無いのを見て、「是へ二陣にすゝみ出たる、一本がらかさの。 法師武者をば。いかなる者と思ふらん。かたじけなくも。浄土宗誓願寺の住僧。庭林也。かたきにをいては。能かたき。舟を漕付。引くんで勝負を決せよ」と名乗ったので、見物の人達はこれを聞いてどっと笑って退散した(1)(3)

その夜、町が騒がしかった理由を板部岡江雪斎から聞いた北条氏政は、「其庭林は。当意即妙を吐。きてん(機転)坊主なり」と面白がっていた。すると次の日、このことを伝え聞いた当時12歳の氏直が庭林を呼び出し、から傘を渡して口上を再現させ、褒美を与えた。(1)(3)

庭林は、後北条氏の滅亡後に江戸へ出て、江戸の誓願寺の「庭林坊」という脇寮に居たという。(1)(3)

堂宇焼失

往時の堂宇は広壮、壮麗だったが、天正18年(1590、小田原合戦のとき)兵火に罹り、堂宇や旧記を焼失した(7)。その後、再建されたが、旧観に復することはできなかった、という(7)

江戸誓願寺

文禄2年(1593)に2世・魯水(見蓮社東誉)は江戸・誓願寺を開基した。『風土記稿』のとき浅草にあった誓願寺の記録には、魯水が小田原の住職だった頃、文禄元年(1592)に徳川家康大久保石見守(長安)を上使として、江戸へ移転すべき旨を命じられて云々、とあった。(1)

明治以降

1923年(大正12)、関東大震災で全焼し、再建された(そのまま、1970年当時に至る)(6)

1929年(昭和4)に、隣地の三乗寺を合併した(6)

境内

1970年当時、境内は457坪(約38.9m四方)、建物は本堂、庫裡52坪(約13.1m四方)(6)。墓域は697坪(約48m四方)(6)。墓域は施錠されている(8)

真養院廃跡

境内の井戸境内に子院・真養院の廃跡があった。側に井戸があり、「白蛇水」といって、後北条氏が茶水にしていたといわれていた。(1)

閻魔堂

薬師堂

観音堂

境内に観音堂があり(1)(6)、「大悲閣」と号していた(観音堂と別の堂宇の可能性あり)(6)。観音堂の本尊・聖観音は円仁の作で、坂上田村麿の護持仏と称していた(6)

稲荷社

鐘楼

鐘楼の鐘は寛永2年(1625)8月の鋳造だった(1)

小田原藩士・相馬氏の墓

境内に、1929年(昭和4)2月に誓願寺と合寺した三乗寺から移されたと推測されている、小田原藩士の相馬氏当主の墓がある。(5)

駐車場

境内(善照寺の東側の隣地)に月極駐車場がある(4)

寺紋

手水舎 屋根 鬼板の寺紋(丸に三つ鱗寺紋は「丸に三つ鱗(2)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 2019年調査
  3. 三浦浄心『北条五代記』寛永版巻10(6)「庭林坊一本傘の事」柳沢昌紀(翻刻)『仮名草子集成 第63巻』東京堂出版、2020、pp.69-70
  4. 小田原:誓願寺月極駐車場」akippa、更新時期不明
  5. 小田原藩の相馬氏当主」川嶋建・石井國宏『守谷城と下総相馬氏』茨城県守谷市、2022、pp.241-258
  6. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.419
  7. 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、p.565
  8. 2022年調査

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