辻村 歌子ウタ(つじむら うたこ/ウタ、1862年 - 1939年)は、小田原の辻村総本家の5代目当主の妻。旧姓:近藤(こんどう)、本名:福子(ふくこ)(3)。1893年に夫の辻村甚八が死去した後、同家の家務を担った。常助、滋子、伊助の3子があった。60歳を過ぎてから和歌を始め、死去までに1千首余りを詠じた。

経歴

文久2年(1862)12月、伊勢原で、近藤良次郎の二女として生まれる(1:22)(2)。5男5女の10人きょうだいだった(1:39)

明治初期に、伊豆、相模、山梨にわたる全国有数の山林家・大地主となっていた、小田原町壱丁田(浜町)の辻村総本家の5代目・辻村真助(甚八)と結婚(1:18)(2)

1881年(明治14)7月23日に長男・常助出産(1:18)(2)

1884年(明治17)9月、長女・滋子(シゲ)出産(2)

1886年(明治19)4月22日に二男・伊助出産(1:22)

1893年(明治26)7月、32歳のとき、夫・甚八が死去(1:17,18,38)。長男・常助は当時11歳と幼かったため、歌子が家務を後見した(1:17,18,38)。常助と伊助を横浜の伯父の家へ預け、小学校から東京の私立開成中学校へ進学させた(1:22)

  • 『人事興信録』は、常助が1890年(明治23)12月に家督を相続した、としている(2)

日露戦争のとき(1904年 - 1905年)、銃後婦人会を統率し、私費を投じて慰問袋を製作し、(戦地へ)送った功績により、勲六等宝冠章の褒賞を受けた(1:38)(3)

1923年(大正12)9月、関東大震災で浜町の辻村家は家財が全焼(1:44)箱根湯本で暮らしていた二男・伊助一家5人は、土砂崩れで行方不明となった(1:31)。歌子は長男・常助と共に湯本で一家を捜索した(1:38)

1939年(昭和14)12月30日に死去、享年78(1:38)(3)。法号:福寿庵瑞室歌笙大姉(3)。墓は浜町・宝安寺辻村家累代の墓地にある(1:9,16)(3)

歌子は、60歳を過ぎてから歌道を始め、亡くなるまでに1千首余の和歌を詠んだ(1:38)。1941年(昭和16)、3回忌の際に、長男・常助が母の歌集『落葉集』を編じた(1:38)

家族

  • 父の近藤良太郎は、伊勢原の白根村(伊勢原市白根)の人で、俳名:春暁舎沢雉と号し、俳句や庭造りをよくした(1:39)
  • 姉の晴子は、漢学と習字に長じていた(1:39)
    • 晴子の子(甥)の辻村太郎は、小田原出身で、東京大学名誉教授、理学博士、地質地形学の権威(1:39)
  • 10人きょうだいで甥・姪が多く、生物学や農学関係の学者が多かった(1:39)

著作物

  • 辻村歌子(著)辻村常助(編)『落葉集、散木詩草』私家版?、1941・昭和16(1:38,135)

参考資料

  1. 松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994
  2. 辻村常助」人事興信所 編『人事興信録 4版』人事興信所、1915・大正4、つ31頁
  3. 小田原市郷土文化館「25 辻村甚八墓」『小田原の金石文 (2)』小田原市郷土文化館研究誌No.4、1968、18頁