辻村 真助(つじむら しんすけ、1852年? - 1893年)は、小田原の実業家、壱丁田(浜町)の辻村本家の5代目。辻村 甚八(つじむら じんぱち)。
経歴
本名は真助(3)。屋号:綿店の辻村家から養子入りして総本家(屋号:本店ほんだな)の辻村家を継いだ(1:18)。
当時の辻村総本家は、江戸時代後期から明治初期にかけての質屋業で財をなし、伊豆・相模・山梨にわたる全国有数の山林家・大地主となって、その財力を各方面に生かしていた(1:18)。
1875年(明治8)5月、辻村本家の4代目・辻村甚八郎らと共に、小田原の民間人によって設立された積小社の発起人となった(1:18)。
漢詩をよくし、松隈謙文丞、中垣謙斎に師事(3)。漢詩集『散木集』に270賦を詠じている(3)(1:18)。当時、小田原に住んでいた伊藤博文とも親交があった(1:18)。
1893年(明治26)7月12日に42歳で死去(1:17,18)(3)。法号:真光庵悟心明道居士(1:17)(3)。墓は浜町・宝安寺の辻村家累代の墓地にある(1:9,16)(3)。存命中、2度渡欧ないし「世界視察旅行」を企図したが、平素から体が弱く、実現しなかった(1:18)(3)。
家族
妻:ウタ(歌子)との間に、3人の子をもうけた(1:18)(2)。長男:常助、長女:シゲ(滋子)、二男:伊助(1:18)(2)。
参考資料
- 松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994
- 「辻村常助」人事興信所 編『人事興信録 4版』人事興信所、1915・大正4、つ31頁
- 小田原市郷土文化館「25 辻村甚八墓」『小田原の金石文 (2)』小田原市郷土文化館研究誌No.4、1968、18頁