辻村農園(つじむらのうえん)は、明治の中後期から大正期に、辻村家が経営していた農園。同家5代・辻村甚八が山林業・農園経営をはじめ、6代・辻村常助は本格的な農園経営に取り組んだ。1917年に鉄道敷設のため現在のJR小田原駅あたり(辻村農園旧址)から水之尾伊張山に移転。1986年に辻村家の所有地の東側4.7haの管理が小田原市に移され、1992年(平成4)春に辻村植物公園が開園した(1:7)

沿革

開園

松浦1994:18-19頁は、辻村家は、明治中期以降、金融業を廃して山林業・農園経営に切替え(1:18)、6代・辻村常助が山林業を営みながら、推定1901年(明治34)頃に辻村農園を開いた(1:19)、としている。

他方で、松浦1994:41頁は、辻村家の5代・甚八が明治に入ってから壱丁田(浜町)の商家を(分家に)譲って山林および農園の経営に切替えた、とし、常助は明治30年代(1897-1906)に、小田原に戻ってから本格的な農園経営に取り組んだ(つまり農園を開いたのは常助ではなく5代甚八)、としている(1:41)

また『人事興信録』によると、辻村常助は、4版(1915・大正4)時点で小田原銀行の取締役を務めており、5版(1918・大正7)時点で辻村農園々主と紹介されるようになっているため(2)、大正初までは金融業を廃したという状況でもなかったと思われる。

開園時の農園は、小田原城の城址の北側の八幡山麓(家老吉野家跡など)、1994年当時のJR小田原駅の(西側の)位置にあり(辻村農園旧址)、県立第2中学校と敷地を接していた(1:19)尾崎一雄の作品「あの日、この日」に当時の地図が書かれている(1:20,41)

事業の拡大

辻村農園は、東京に売店など6店舗を置いて、花卉、果物、蔬菜、種苗、花篭などを扱った(1:42)。荷車で花などを売る光景は東京で有名だった(1:42)

1913年(大正2)に雑誌『箱根植物』の末尾に辻村農園の広告が掲載されており、所有地は1,108千坪、圃場および店舗15ヶ所(うち東京方面営業所6ヶ所)、ガラス面積21,764方尺、従業人員1ヵ年単功32,400人(/日、営業日数250日として1日あたり129.6人)と記されている(1:42)

移転

明治後期に、国府津から小田原鉄道が敷設されることになり、農園は1917年(大正6)に水之尾へ移転した(1:20)

関東大震災

1923年(大正12)の関東大震災で辻村家の浜町の家財は全焼し、経営に携わり、箱根湯本で辻村高山園を開園していた常助の弟・辻村伊助一家が土砂崩れで死去したこともあり、農園の経営は中止を余儀なくされた(1:44)

辻村植物公園

1986年(昭和61)、小田原市水之尾の辻村家の所有地の東側4.7haを整備し(1:46)、1992年(平成4)春に辻村植物公園として市民に開放した(1:7)

参考資料

  1. 松浦1994:松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994
  2. 人事興信所 編著・出版『人事興信録』
    1. 辻村常助」『―― 4版』1915・大正4、つ31頁
    2. 辻村常助」『―― 5版』1918・大正7、つ43頁

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