透谷碑(とうこくひ)は、南町2丁目の小田原文学館にある北村透谷追悼碑

建碑

大正時代(1912年 - 1926年)に福田正夫雑誌『民衆』の同人が建碑を話合い、昭和に入ってから浜町の透谷の生家跡に建てようとしたが、建設許可がなかなか下りなかった(1)。そこで透谷と親しく建碑の発起人でもあった島崎藤村が「答申書」を書いて当局へ提出するなどした結果、1929年(昭和4)7月に小峰公園城山)の大久保神社の境内に碑が建立された(1)

碑文「北村透谷に献ず」は島崎藤村の筆になり、雪崩造りのデザインは牧雅雄による(1)

移転

その後(1949年8月)、小峰公園が競輪場となったことから、1954年(昭和29)5月16日に、城内馬出曲輪図書館前(1963年当時の郷土文化館)に移された(1)。同日除幕式が行われ、遺児:堀越英子、島崎静、勝本清一郎、野田宇太郎らと、小田原から鈴木市長ら関係者が列席した(1)

このとき、浜町の透谷の生家跡にも標識の石柱が建立された(1)

関連資料

  • 島崎藤村の「答申書」の全文など、建碑の経緯は、野田宇太郎『湘南伊豆文学散歩』に詳細に述べられている(1)

参考資料

  1. 石井富之助「1 北村透谷」神奈川県立図書館『神奈川県の歴史 県下の文学編 上』〈神奈川県立図書館シリーズ8〉神奈川県立図書館、1963、68-72頁