「飯泉観音堂境内図」(2)にみえる供僧の名号飯泉観音の供僧(いいずみかんのんのぐそう)は、飯泉観音に勤仕する僧、或いはその僧坊。6院あり、いずれも国府津宝金剛寺または小田原(浜町)の蓮上院の末寺で、真言宗東寺派寺院だった。千代にあった頃は弥勒院が別当をしていたが、飯泉に移った後は勝地院が別当を務め、『風土記稿』の頃(19世紀前半)には6院が月ごとに交替で別当を務めていた(1)

勝地院

勝地院(しょうじいん)は、国府津宝金剛寺の末寺で、飯泉村の鎮守・八幡社の別当寺だった。弓削道鏡の開山といい、中興は頼秀(正応2年・1289没)。本尊は不動明王。文書5通を所蔵していた。(1)

  1. 天文15年(1546)2月、小笠原某が供僧らの領地を旧例のとおり寄附した書状
    • 観音供僧分廿一貫文、如前々之寄附申者也、仍如件、天文十五丙午年(1546)二月十八日、飯泉山別当坊、小笠原花押、『風土記稿』は、「小笠原」は永禄の頃の地頭・小笠原六郎と推測している。
  2. 永禄5年(1562)12月に北条氏が発出した法度書(前出)
  3. 天正17年(1589)正月、神馬銭の令書(前出)
  • 徳川家康が勝地院に送った書翰

    芳札令披見候、仍被任嘉例祈祷之札、并杉原十帖五明到来、珍重候、猶阿部伊予守可申候、恐々謹言、九月六日、勝地院、家康花押、

  • 慶長4年(1599)5月に大久保相模守の家人・白幡与四右衛門が与えた山中の掟書(前出)

弥勒院

弥勒院(みろくいん)は、国府津・宝金剛寺の末寺で、飯泉村の神明社の別当寺だった。中興は僧・慶博(正応5年・1292没)。本尊は弥勒菩薩立像高さ1尺9寸(約58cm)。行基の作。応永32年(1425)12月26日に鎌倉管領・足利持氏が与えた当山別当職の補任状を所蔵していたが、中古に失った。地蔵堂があった地蔵菩薩は立像で高さ3尺1寸(約94cm)。恵心の作(1)

宝寿院

宝寿院(ほうじゅいん)は、国府津・宝金剛寺の末寺だった。中興は慶海(永仁元年・1293没)。本尊は不動明王。『風土記稿』のときには無住となっており、弥勒寺が兼任していた。(1)

常福院

常福院(じょうふくいん)は、小田原(浜町)・蓮上院の末寺で、飯泉村の稲荷社(両毛稲荷)の別当寺だった。弓削道鏡の開基とされ、寛永年中(1624-1644)に僧・聖仁が中興した。本尊は薬師如来。大師堂があった。(1)

広福院

広福院(こうふくいん)は、小田原・蓮上院の末寺だった。中興開山は周海(享保13年・1728没)。本尊は阿弥陀如来。『風土記稿』のときには無住となっており、常福院が兼任していた。(1)

大徳坊

大徳坊(だいとくぼう)は、国府津・宝金剛寺の末寺だった。永仁元年(1293)に恵任が中興した。本尊は不動明王。『風土記稿』のときには無住となっており、勝地院が兼任していた。(1)

承仕

承仕は、供僧の管理下で、寺に仕え、雑役などを担っていた(1)

道久坊

道久坊(どうきゅうぼう)は、本尊は薬師如来で、供僧6院と同じように、除地を割当てられていた(1)

参考資料

  1. 『風土記稿』成田庄 飯泉村 観音堂 供僧
  2. 『新編相模国風土記稿』国立公文書館 内閣文庫 請求番号173-0190 第18冊 コマ10(巻36 飯泉村 観音堂)