ひつじが丘/三浦綾子 について知っていることをぜひ教えてください

ひつじが丘

ヒロインの奈緒美は、稀にも見ることのない美人であり、牧師の娘であることから、人格者である両親との生活に思春期独特の反発心を抱いていた。そんな折、友人の兄杉原から求婚される。杉原は、浴びるような酒と女遊びの常習者で、出会ってきた女性を全て不幸にしても、一切自分を咎めることを知らない人間である。絵の才能は自他ともに認めるものがあるが、才能を開花させるためには他の人が犠牲になることも厭わない。奈緒美には、自我を主張する杉原が子供のような純真な心を持つものに見えたが、杉原を純真な人間だとは思えないという両親と、奈緒美の恩師であり杉原の旧友である竹山に、人を見る目がないと言われていると感じ反発する。他の人を責め、自分だけを正しいと思う心の傲慢さから家出同然の結婚生活へと進んで行く。

 

愛するということ

「奈緒美。人を愛するって、どんなことか知っているのかね」

改めて問われれば、奈緒美は明確に答えることは出来なかった。

「お前も愛するということが、単に好きということではないくらいは知っているだろう」

「・・・・・・・・」

「愛するとはね、相手を生かすことですよ」

「そうだよ。お前は果たして、杉原君を生かすことが出来るかね。おとうさんがにらんだところでは、あの人間を生かすということは、ひどく骨の折れることだと思うがね。とても奈緒美には生かしきれまいな。へたをするところしてしまうことになる」

「まぁ、ひどいわ、おとうさん。わたしだって、人一人ぐらい愛することが出来るわ」

「そうかね。愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。ゆるしつづけることだ。杉原君をお前はゆるしきれるかね」’(ひつじが丘より抜粋)

 

 自我の主張を愛と見間違えないように

知的であったり、人目を惹く美人が、何もこんな男性を選ばなくても良かったのではなかったかと思われる遊び人と結ばれて苦労するという話は世間に溢れている。勿論それらの選択も人それぞれではあるものの、女性に潜む傲慢さが見る目を曇らせてしまうことが多い。「この人には私が必要」「この人を理解してあげられるのは私だけ」その思いの中には、自分には人を変える力がある、自分の考えは正当なのだという誤った自我が大きく影響している。一般的には、遊び人に振り回され不幸になる女性だけを悲劇的に捉えるとことが多いものだが、「ひつじが丘」では、不幸になるのは必ずしも片方だけではないのだという事が語られている。愛するということは相手を生かすことであり、間違えると相手を死に致しめることもあるのだという事を見せている。人を愛するという事はとても難しく、そしてこれ以上になく貴いものだと。

 

「2017年5月13日 菅原由美」