札幌オリンピックミュージアム前、大倉山ジャンプ競技場をバックに

2021年4月に阿部雅司さんはスペシャルオリンピックス日本・北海道の理事長に就任されました。同時に鈴木靖さんも理事に就任されました。お二人とも、オリンピアンとして、スポーツを始めた頃の喜びを、小さなアスリートと関わることで思い出し、自身の栄光と挫折、どん底から這い上がった経験をお持ちです。今、知的障害のあるアスリートから与えられる幸せを多くの人に感じてもらいたいと活動されています。

札幌オリンピックミュージアムにてお話しを伺いました

二人のアスリートがそれぞれの取り組み、活動を結びつける

阿部
札幌オリンピックミュージアム館長の阿部雅司です。自分は、選手としてノルディック複合のオリンピックに3回出場しました。2020年年4月から、札幌オリンピックミュージアムで札幌市の子ども達にオリンピック・パラリンピック教育を行なっています。当館は2017年に世界中が加盟するオリンピックミュージアム・ネットワークに加盟が認められて「札幌ウィンタースポーツミュージアム」から「札幌オリンピックミュージアム」と名称が変わりました。その時にお声がけを頂き、館長に就任しました。本当に最高の職に就けていただいたと思います。スペシャルオリンピックスとの出会いは2012年に行われた第60回なよろ憲法記念ロードレース大会にゲストランナーとして参加したときです。記念講演に来られたスペシャルオリンピックス日本の理事長、有森裕子さんとご一緒してスペシャルオリンピックスを知りました。その後、名寄在住の楢山ご夫妻の強いお誘いがありました。(当時楢山秀明さんはスペシャルオリンピックス日本理事、雪枝さんはスペシャルオリンピックス日本・北海道の事務局長をされていました)

鈴木
北海道オールオリンピアンズゼネラルマネージャーをしています。2012年ごろ「北海道のオリンピアンって何人いるんだろう?」と話していて、調べたら相当な人数がい事がわかりました。橋本聖子さんに「オリンピアンが集まって何かできないだろうか」と相談したところ「先ずスピードスケート集めましょう」と活動をはじめて、次はスキーと、阿部さんにも声を掛けました。初めは20人くらい。横の繋がりでどんどんと増え今は470名を超えました。 1972年以後の方で組織していますが、それ以前を含めると600人越えです。大体は現役を引退された方々ですが、1割くらい現役も居ますよ。北海道のオリンピアンズは土地続きの他県と違い、海を渡った土地柄か、郷土愛が深いようです。

阿部
北海道オールオリンピアンズの組織の中身やどんな活動を行っているのか、皆さんに知ってもらって活躍の場をもっと広げていってもらいたいと期待しています。

鈴木
私たちは、壁を作りたくないと思っていて、講演会やスポーツイべント以外にも例えばグランド整備、河原・海のごみ拾い、植林など何でもやります。コロナ禍以前は年間300件毎日何処かでオリンピアンズが活動していました。もっと存在を知って頂いてオリンピアンたちが壁を作らずに活躍したいのでどんどん幅を広げて行きたいと思っています。

阿部
厚真町震災などの時の対応も早かったですね。

鈴木
支援の依頼を発信するのは簡単ですが、直ぐに対応する熱意が凄いなと思いました。あんな短時間でメダルを携えてたくさんのオリンピアンズが被災地の子ども達の為に集まってくれました。みんながメダルを持ってきて、驚くほどのメダルが集合しました(笑)。今後もそのような活動をして行きたいです。

阿部
オールオリンピアンズからの声掛けは、凄く集まりやすいと思いました。利害関係がないので、何でも協力したくなりますね。北海道を一つにするパワーがある組織だと思います。

鈴木
先般、札幌の4丁目連合会のお祭りに参加したんですが、ご挨拶をしたときに「北海道オールオリンピアンズって、どんな団体ですか?」と聞かれてご説明すると「いやあ、全然知りませんでした!!申し訳ございません。」と。でも、それから、お付き合いが始まりパネル展など開催しています。

鈴木靖さん

私たちは勝利をめざして頑張ります。たとえ勝てなくても頑張る勇気を与えてください


鈴木
今回阿部理事長からお声がけいただいて理事職を承諾しました。私は1962年生まれで、ユニス・ケネディ・シュライバーさんが自宅の庭で知的障害のある子どもを集めてデイキャンプをした年の生まれで、思い入れがあります。1968年シカゴのソルジャー競技場で開催された「第1回スペシャルオリンピックス国際大会」のアスリート宣誓は、大好きな言葉の一つなんです。「私たちは勝利をめざして頑張ります。たとえ勝てなくても頑張る勇気を与えてください。」「勇気」という言葉は、講演やスポーツ教室などで子ども達によく使う言葉なのですが、勇気を出すことって凄く難しいことで、障害のある方がスポーツに挑む活動そのもの、生き様そのものが勇気だと、そこがオリンピアンと繋がると感じ「これは面白いぞー」とワクワクしています。実際になにをしていきましょうか。

阿部 
北海道は広いので、スペシャルオリンピックスの活動はそれぞれの地域が自主的に動いています。地域によって行われている競技種目は異なっていて、参加するアスリートの人数、指導できるコーチの人数や会場・施設の関係で思うようにはなかなか行かないのが現状です。もっと指導者を増やして、アスリートに色々な競技の機会を提供したいと思っています。

鈴木  
指導者には特別な資格は要りますか?

阿部 
はい、コーチクリニックという研修システムがあります。スペシャルオリンピックスとは?を学ぶ「ゼネラルオリエンテーション」、知的障害の方を知る「アスリート理解」、それぞれの競技種目の取組み方を学ぶ「座学」と「実技」があります。今年から、オンラインで受講できるようになっています。

鈴木 
それなら、各地域に住むオリンピアンズに「こんなスポーツを始めたいんだけど、指導者が居なくて」と、コーチ資格を取って頂いてプログラムに参加していくことが出来ますね。

阿部
そうですね。全道各地にオリンピアンが居ますからね。指導者不足は大きな課題です。

鈴木
スペシャルオリンピックスのSは、オリンピック・パラリンピックのような大会を指しているのではなくて、365日何時も何処かで活動が行われている意味と伺っています。そのための支える組織づくりは大事ですね。

阿部
 私は有森さんに誘われた時に、知的障害のことをよく知らずに壁がありました。地下鉄で近くに居ても目を合わさないように、なるべく関わらないようにしてきました。しかし、実際に陸上で一緒に走ったり、クロカンスキーを一緒にすると普通に楽しめました。今まで避けてきたことが恥ずかしく思えました。一生懸命に取り組む姿勢や出来た時のガッツポーズする姿を見て、自分がスポーツを始めた頃、スポーツの原点を感じました。それでこの活動は素晴らしいと思い、のめり込んでしまいました。

鈴木
そこなのね。私も同じ経験をしています。地下鉄で奇声を上げて騒ぐ方に笑顔を向けたとして、それが「大丈夫、平気だよ!」なのか「馬鹿にされたかな?」と思われるのか、無視した方がいいのか、どう対応していいか分からなかった。きっと多くの方が同じと思うので障害を理解して支え合う心を持った社会にしたいと思います。

阿部雅司さん

 

市民の全てがスペシャルオリンピックスのムードで、アスリートを主人公として大切に歓迎

阿部  
それを強く感じたのが、2017年の冬季ワールドゲーム・オーストリアに行かせて頂いたときです。街全体、市民の全てがスペシャルオリンピックスのムードで、アスリートを主人公として大切に歓迎しくれていて、これってなんだと思いました。こういう大会って素晴らしいなぁ~、日本で開催しても同じように接してくれるかなぁ~。オーストリアの世界大会でオリンピック、パラリンピックとは違う暖かいものを感じました。

鈴木
日本で開催した場合、日本人も同じポテンシャルはあると思いますが、どう接していいかがわからない。それが解決すれば、日本は世界一のおもてなしが出来るかもしれない。

阿部
本当は、昨年のナショナルゲームが開催していればSOの事、知的障害の方たちの事を理解して頂けるチャンスでしたね。鈴木さんにも、2020冬季NGに関わって頂ける予定でした。ショートトラックスケートの設営をお願いしていたんですよね。  スケート協会との調整他、大変ご苦労をおかけしました。

鈴木 
開催中止は残念でしたよね。次の機会には是非!

内戦を止めようとIOCが「平和のために」という思いで開催したサラエボ

 

阿部 
ところで、僕も靖さんの事は、腹筋しか知らないんですが(笑)、靖さんは、ショートトラックの競技はされているんですか?

鈴木 
競技はしていませんが、指導はしています。

阿部
靖さんは、サラエボの冬季オリンピックに出場されていますが、皆さん靖さんの現役時代にお話を聞きたいと思うのですが、日本チームはどのような感じでしたか?

鈴木
サラエボの前に世界選手権があって日本チームは出場の男子4人は全て16位以内の強豪。この頃に団体戦があれば、間違いなく勝てました。オリンピックの全日本日本チームは男子6名、女子3名という狭き門でした。この時の女子チームに橋本聖子選手(高校3年生)や黒岩彰選手がいました。短距離は誰がメダルを取ってもおかしくないチームでした。スピードスケート競技は、以来ずーっとメダルが続いています。

鈴木 
サラエボは凄かったですね。内戦を止めようとIOCが「平和のために」という思いで開催しました。オリンピック後、又内戦が勃発しました。後で訪ねたとき、私達が滑ったリンクは、なんと墓場になっていました。外に一歩出ればみんな銃を持っているような状況でした。選手村でも、部屋に着いてベットに腰を降ろすとバリーンと壊れてしまい。運営側が怒られ、監督には何やってんだと叱られましたが。そうですね。今、ここに来てこの時間を過ごすときにオリンピアンとして自覚すると、私たちが何をしなくてはいけないのか、オリンピアンとはどんな存在なのか、社会の人たちからどう見られているのか。私は、3回オリンピックを狙って、カルガリーで選考から外れ、次に挑戦する途中で止めたんですけど、その時はスケートが大嫌いになりました。というかスポーツすべてが嫌になりました。テレビのチャンネルのスポーツが映るとすぐに変えるくらいでした。2年間は一切スポーツに関わらなかったです。ただ、先輩の子どもさんが中学校の強化選手になったという事で「中学生だったら良いですよー」と指導を引き受けたんです。中学生の子ども達が一生懸命取り組む姿勢に「原点ってこれだよな、今まで何に拘ってたんだ」子ども達が頑張り、笑顔になる姿を見て、オリンピアンとして何をすべきか考えるようになりました。あのどん底を味わったので、人に対する優しさとか思いやりだとか、尊敬することの大切さが凄くわかりました。何でもチャレンジしたかった。そして、水道工事、トラックの運転手、砂利の積み込みなど色んなことをやりました。スポーツ以外の経験を積んだことがその後のキャリアに凄く活かされました。そこから「身体」のことが大好きですから勉強をして、汗・涙がでる、おしっこが黄色い、どこをどう動かしたらどうなるとかいう事が知りたくて、札幌医大に入学しました。医学の根拠に基づいたコーチングは信頼されるので選手たちもしっかり聞いてくれます。へこたれてるんですよ。でも、又上がるんです。

阿部
陸上のプログラムに参加したんですけど、ラダーをポンポンと飛ぶ事も最初は出来なくてもだんだん出来たる様になった時は嬉しそうにガッツポーズをするんですね。純粋に喜ぶ姿は輝いて見えました。

鈴木
イヤー、そういうの早く味わってみたいですねー

阿部 
僕は日本のナショナルチームのコーチを長くやっていたんですが、出来上がった選手たちばかりなので、そういった感動はないんです。でもスペシャルオリンピックスは一からの指導なので感動は多いですね。逆にエネルギーを貰えるんですよ。アスリートたちと接すると一緒に成長できて喜びをたくさん貰えるんですよ。オリンピアンというトップアスリートの方にSOのコーチの楽しみを味わって頂けるんですね。

阿部
そうですね。皆さんに知って頂けると思います。

鈴木
特に障害者という目線で接してはダメだと思っています。人間って、どんな人でも100を持っている。誰でもどこかが優れていればどこかが劣っているんです。その優れているところは尊敬に値するので、これから色々発見したいなと思っています。そんな出逢いが楽しみです。

阿部
パラリンピックを観戦していて、「よく欠損のある身体で泳ぐなー・・」と、尊敬しました。私たちは勇気をもらいましたね。

鈴木
パラリンピックの方々、視覚障害の方々のために文字を音声にするシステムがあるんですけど、私たちには絶対解読不可ですが、頷いて聞いている。実に尊敬します。

阿部
知的障害の方たちは素直さ、擦れていない方が多いじゃないですか。競技歴はほんとうに関係ないですね。実際に、コーチをしているのが、競技経験のないアスリートの親というケースもあります。一緒になって体を動かしてくれる人でしたら大丈夫ですね。アスリートたちは僕のことを知りませんが、「オリンピックに行った阿部さんです」と紹介してもらい、金メダルを見せてあげると、急にVIPなったりして(笑)脚にしがみつかれたりする、そんなスキンシップもあったとか、その中にもぜひ鈴木さんにも入っていただきたいですね。鈴木さんが北海道オールオリンピアンズを少しづつ大きくして、470人の方がいらっしゃいます。そのみなさんが色々な形で活躍できる場をこれからどんどん見つけていく、という話をしていただきました。スペシャルオリンピックスがその場の一つになるのではないかと思います。

 

北海道オール・オリンピアンズと2021年より、日本で活躍したトップアスリートを迎え始動したGREATEST SPECIAL  ATHLETES(通称グレスペ)のロゴマーク

もっともっと表に出たい

阿部
もっともっと表に出たいですね。スペシャルオリンピックスの知的障害のあるアスリートたちは、なるべく人と接しないようにする人が多くいます。スポーツの魅力でひっぱり出すと、アスリートとそのファミリーまで笑顔が溢れるようになるんです。障害のある人はなかなか表の場に出てこないことがあるので、スポーツの力で表に出して、笑顔にしたいと思っています。本当に、一人でも多くの人に笑顔になってもらえればいいなと思います。その力になってもらえるのが、全道にいらっしゃるオリンピアン、パラリンピアンの皆さんだと思います。一緒に北海道を笑顔にしていきたいですね。

鈴木
もっと露出させないとダメだと思います。共生社会と言われ、私も色々お話をしたり、コマーシャルしたりしていますが、なかなか進まないですね。今回のパラリンピックを見て、選手の活動を見て、普段の自分たちの生活で、例えば、段差とか気にしなかったものが、「あの人たちは大変だよね」というふうに、考えてくれる人が少しでも多くなってくれるイベント、広報活動がパラリンピックだと思います。このパラリンピックひとつでも考え方が変わっていくので、私は阿部理事長がお話しされたように、どんどん外に出していく、皆さんに見ていただいて、活動で一緒に笑顔になって、自分たちに何ができるだろうと気づいてもらう、そんな形が一番いいのかなと思います。私たちオリンピアンズや周りの方が、一緒になって笑顔を発信しているスペシャルオリンピックスのアスリートたちの笑顔を見るということは、すごく見ている人の心がやすらぐとか、色々な影響があるので、いい活動しているなとなる。活動を認めていただければ、自分たちもやってみたいなと思っていただけばと思います。アスリート達に、幸せにしてもらって欲しい。

阿部
スペシャルオリンピックス日本・北海道と北海道オールオリンピアンズと協定を結んでいただければと思いますが、いかがでしょうか。

鈴木 
実は、私たちのホームページの協力いただいている企業・団体にすでにスペシャルオリンピックス日本・北海道を掲載させていただいておりまして(笑)、ぜひ今後は協定を結びたいですね。

 

阿部雅司

阿部 雅司(あべ まさし、1965年生まれ)は北海道留萌郡小平町出身。スキー・ノルディック複合の元選手小学1年でスキー選手。小学3年からジャンプ競技、中学1年でノルディック複合。3年連続全国大会出場。全日本選手権・少年組で優勝。インターハイと国体では2位。宮様国際大会でジャンプのラージヒルと二冠。ノルディック複合日本代表メンバーに選出される。1985年、ワールドカップ初出場。1986年、全日本選手権と国体で優勝。1987年、全日本選手権連覇。1988年カルガリーオリンピックで初代表入り。1991年の世界選手権団体で銅メダル。ワールドカップでは自己最高位の2位。

1992年のアルベールビルオリンピックで自身2回目の冬季五輪代表入り。団体のメンバーからは外され、日本の金メダルを獲得したため、失意のどん底に落ちた。1994年のリレハンメルオリンピック団体で日本としては2大会連続、金メダルを獲得。2014年ソチオリンピックまで20年間日本代表コーチを務め、渡部暁斗らを指導した。2016年北海道名寄市の特別参与。2020年4月から、名寄市との兼務で札幌オリンピックミュージアム館長を務めている。2021年4月からスペシャルオリンピック日本・北海道で理事長に就任。

鈴木靖

鈴木 靖(すずき やすし 1962年生まれ )北海道鵡川町(現北海道むかわ町)出身。スピードスケート選手。小学校の頃から夢中になってスピードスケートに取り組む。父親の車のライトに照らされて、日が落ちた後も滑り続けた。高校1年時に2000mリレーにて高校日本新記録。1984年のサラエボオリンピック日本代表として男子500mに出場した。1983年ドイツ国際大会・中国国際大会では500m優勝。同世代の黒岩彰とは友人としても仲が良かった。全日本実業団スピードスケート大会で3連覇。サラエボでは一度は吹雪で中止とされたあと、雪の積もるタイミングでスタートの時刻を迎える不運に見舞われた。失意のどん底からはい出せたのは、中学生への指導だったという。純粋なアスリートとの出会いをきっかけに指導者として活動を開始。『Vortex』の代表、JR北海道スケートチームの監督。 公益財団法人 日本アンチ・ドーピング機構のアスリート委員。2012年橋本聖子を代表とする北海道オリンピアンズを結成スポーツを通じた世界平和と国際的友好親善に貢献し、国内のスポーツの振興に寄与することを目的に活動している。ゴミ拾いや被災地での活動など、地道な物も多い。2016年パラリンピアンを迎え、名称を北海道オリンピアン・パラリンピアンズに変更。2017年から全てのオリンピアンを迎え、北海道オール・オリンピアンズに改名、スペシャルオリンピックスから伊藤友理選手を迎えている。2021年4月からスペシャルオリンピック日本・北海道で理事に就任。