厳しいときを乗り越えたら未来へ投資

いいお客様に恵まれている。でも一つの会社に頼り切ってはいけないので、一社で20パーセントを超えないように調整してる。例えば、三和 シャッターの仕事が歴史的にあり、大切にしているだけど、普通できない文化シャッターの仕事をやらせてもらえる。そんな関係も築くことができた。例えば発寒の鉄鋼団地時代経営が大変で、仕入先に資金援助をしていただいてなんとか凌いだこともある。丘珠に移った時、仕事やっても利益があがらない建設金物、鉄骨をやめて、サッシ一本にした。社員を鉄骨に社員移動して絞り込んだ。

「経営者は大変だったと思う」。そのあと、上向きになって、バブル時代。「章さん、一夫さんは真っ先に社員の給料を上げてくれた」という。そして、バブルのときに踊って土地転がしなどは絶対しない。利益はすべて、人と未来にむけて投資。工場の設備を拡大した。

リーマンショックで仕事が減った。雇用調整助成金をもらって、数ヶ月、給料8割におさえて頑張っているうちに、また市場はよくなった。受注量が増えて、利益率が上がった。そして、2013年からのこの2年が最高だ。今期は売りが気は下がったけれど、目標は達成している。ライバル企業が倒れて、人も仕事も増えたこともある。工場に生産力があるので、それも叶ったと言える。利益の出ているときに、今後20年を見越して投資をしておく必要がある。幸い一括償却ができるので、この数年で設備投資を8000万円完了したところだ。
 

信頼して、まかせてくれてた

「章さんは主に井上鐵骨の仕事をして業界団体の役職をやっていて人脈が広かった。一夫社長はなんだかんだいわない。信頼して、まかせてくれてたのでやりがいがあった」。

章さんの時代に、メーカーの下請けで、建築金物、鉄骨などもやっていた。一夫さん時代になって、当時、メーカー、シャッターなどの専門性が高いものは取引を続け、直に取れる仕事はコツコツと取る営業を始めている。建築金物調子の需要が少なくなったとき、その分野は施工の業者に売却してしまう。一夫さんの判断も会社を守る上で非常に重要な成功を重ねる。そして、今も当時守りぬいたサッシやドアといった建具の仕事が現在の井上鐵工だ。

札幌オリンピックなどで、続々と建物が建っていった。ガソリンスタンドみたいに小さいから、ビル一棟の大きなものものまでいろんな仕事が時代ともに、現れてくる。その頃の建物が老朽化してすれば、建て直しの時期が来る。30年、40年と次の需要が来るまで待てる体力を持てば会社は生き残る。

 

井上でなければできない仕事

現在は、井上でなければできない仕事がたくさんある。小樽築港駅の渡り廊下、鉄で作ったサッシのガラス張り。こんな構造に絡む鉄のサッシを仕上げるのがうちの強みだ。札幌ドームの芝の入れ替えの大扉や北海道新幹線の整備工場の大扉。これの検査は工場内では無理で、外に仮設の建物を作ってやった。一度あげたら下ろすことのない、スカイツリーのマシン室の水蜜ドア。水が入らない。

「展望台の機械室大変だった。上まで上げるから、仕上げて現場に上げるとき、あげてからはチェックできない。メンテナンスフリーの状態を作るため、すべて地上で厳しい検査を繰り返してから、上に乗せたんです」。

愛媛の市立病院。他に作るところはないものをどんどんやった。名古屋や横浜の入管や刑務所の独房のドアなんてのもある。当初は大変だったと思うけど、容量を覚えると、難しくない。設備があるからね。天井が高い。仕事しやすいいい工場だ。

職人が勉強してくれいる。昔かからやってくれているひとがいるからやって行ける。頭をきりかえて組んで行ける。今は、効率よく部品ができて、プラモデルの組み立てみたいになっているから、職人の応用力が亡くなることを警戒している。人作りは大切だ。募集すると、経験者は来てくれる。例えば、工場で一年もの作って、展開図を作らせて、四月から営業に回ってもらった社員がいる。しっかり育ってくれている。人をよく見て、適材適所。ものを作る以上に、その仕事に合っている人を合っている場所についてもらう。

 

西村社長と歩いているとさりげなく職人のことを自慢される「この人は塗装素晴らしいです」「この人はきちんとしてて、仕事が早くて綺麗なんです」。訊けば毎朝、工場を一回り、作業の進捗などを見て歩いている。厳しい目で、見て職人たちのひとりひとりがいて地道な仕事をこなしていなければ大きな仕事もないのだという。

人の手で全体図から部品を作る展開図までやっていた。バラの部品の図面を起していたものをコンピュータでバラ図を起こしてそのまま機械で部品のカットまでしてしまうところまで来た。コンピュータの技術者を育てて使いこなさなくてはならない。先進事例があれば、どこへでも学びに行ってもらう。同業者と連携、参考して、いい方法を取り入れてゆく。


鐵骨を分離してすぐにサッシの事業を始める

サッシは菊水工場から始めた。南4条の工場では建設金物をやっていた。木造の体育館で木材に補強で鉄の筋交いをしていた時代だ。もともとの体育館は木造、窓枠も木だった。鉄の格子をつけたり、アンカーボルトを入れて補強をする。昭和38年から、40年ごろの工場は、コークスにエアーを送って、熱した鉄を叩いてまげて鎹つくる。先代の一夫社長はその職人だった。

丘珠に引っ越すまでは発寒時代は鉄骨もやっていた。都市化街中になってしまい、音を出す仕事ができなくなる。丘珠に移る。すでにサッシ屋さんが何軒かあったところに、参入してサッシを作る。材料を曲げる機械、切る機械を導入して体制を整える。他社に比べて設備がよかった。
三和シャッターが道内に進出する昭和33年の時、シャッターのレール、ボックスなどをいち早く受託する。章社長にはそういう先見の明があった。レールを曲げたりする。機械を導入してゆく。

昭和36年から埼玉県所沢市本社の昭和工機さんと取引が始まる。仕事と昭和機械から教わり、窓、ドアを作った。北海道の指定工場となり、昭和工機さんから仕事をいただいて、納めていた。

設計で図面を引くのが仕事だったのだが、営業も自然にやっていた。
道 内のあちこちの仕事を開発した。車の時代がやってきて、鉄のサッシでなくてはダメなガソリンスタンドが全道に置かれて行く。営業をして直接お客様から仕事 をいただくことができた。例えば、トラックで旭川まで持って行って取り付け。翌日は阿寒に行ってなんてこともあった。職人をオートバイで先にいかせたり。 車が限られていたから。

 

一夫社長の判断の正しさはアルミサッシの扱いを断ることでも発揮される。

自分たちは鉄をやるんだ。建築におけるアルミサッシの普及が急激に始まった時、メーカーからアルミのサッシを作る提案を受けるも即断っている。
設備投資をして、部材の在庫を抱え、利幅の薄い製品を作ることを拒絶。一時は良くても、実際に導入した同業者は命とになって廃業している。比較的早く住宅のサッシは樹脂に変わってゆく。一夫社長のその判断は正しかった。

 

設計で入ったが、営業も自然にやっていた

井上には先輩がいた。出身の美唄工業高等学校に募集の案内が来た。炭鉱が寂れて、閉山が始まる。人口も減ってゆく頃に青春を迎えた。
三菱美唄の炭鉱があり、工業高校を炭鉱の技術者を要請する建築、土木、機械があった。建築の勉強をていた。父の働く炭鉱に食べるのもの。交通費もだしてもらって勉強した。

最初は井上鉄骨に設計で入った。半年か一年で、設計のいない井上鐵工に異動する。建築図面に、施工図を書く仕事とから始まった。当時はリベットを多用する工法。鉄骨をリペット固定する。現場でコークスを真っ赤にして、リベットを焼いて、火 ばさみでつかんで投げあげる。足場を組んで上で待っている職人が大きなロートのような道具で真っ赤なリベットを受け止める。それを穴にはめてエアーで締め 付けていた。百貨店の丸井さんの建設現場に入った記憶がある。「相撲取りになった方がいいんじゃないか」と言われるほど体が大きかったので、設計なんだけ ど、けっこう現場の力仕事を手伝わされた。