大きな仕事は楽しいよ
ここの工場、天井高いし、大きなものの仕事はよく来るんだ。井上だからできる大きな仕事は本当に楽 しいよ。ファクトリーのアーチ、小樽築港のアーチ、JRの帯広駅、八雲の東京理科大 学は四人で三ヶ月かかったかなあ。和夫さんから、お前ならできるだろって図面渡されて。あと、千歳科学技術大学。ああいう仕事はやってても楽しい。北菓楼 札幌本館のカーテンもね。波打ってるの。新幹線の整備工場の扉も札幌ドームの芝生を出し入れする大扉も。函館の役場、カーテンウォール、H鋼で作ったの は、発寒の工場でした。昭和53年かな。生まれ故郷の岩見沢市の志文の市営住宅と志文小学校をやれたときはちょっとうれしかた。
一回辞めて逃げ出したら、一夫さんに連れ戻された
「一 夫さん、優しい人だった。一夫さんから一番教わったのは、仕事に遊びというか余裕を持たせることかな。どんなに急いでも仕事を間違えたらやり直し。結局たくさん時間かかって原価もかかってしまうからね。ちゃんと余裕をもたせてどんなことがあっても納期を守る。やり直しのない仕事ができるように進めることで すね。結局、それが一番効率がいい」。
「岩見沢市の志文中学を出たら先輩を頼って、井上の世話になったんです。でも、嫌がらせをする先輩がいて ね。僕も生意気だったかもしれないけど、言葉遣いが悪いとかい ちいち暴力なんで、嫌になって逃げたんですよ。4月に入って、9月に。がはは。そしたら、一夫さんが迎えに来てくれた。彼はボルトを作る職人だったので、 なんか、よく一夫さんの仕事を観に行ってたんです。最初は折り曲げを仕込まれたんだですよ。でも、悪い先輩がいたでしょ。結局彼はすぐに辞めてしまうんで すけどね。戻った時は組み立てに回してくれたので、もういじめられなかった」。
「一夫さんはすぐに仕事も任せてくれるし、優しくてね。一緒に飲みに行っても楽しかった。長い良い付き合いが続きましたよ。みんなの前では、社長と社員。二人きりだと友達でした。麻雀好きで、運転手をさせられました。発寒から菊水までとかね」。
「最後はね、亡くなる数日前に僕のところに来てくれたんですよ。『お前、いつまでいるんだ?』って突然来るから『社長がいなくなったら、俺も辞めるよ』って。それきりです。知らせに来てくれたのかなと思います」。
会社に守られて安心して働いた
1946 年(昭和21年)岩見沢に生まれた近藤進さん。水田を持つ裕福な農家の生まれだ。志文の丘陵から石狩平野を見渡して育ったいう。
「兄たちは学校に行ったんだけど、僕の時はね、火事にあってお金も一緒に燃えてしまった。当時は銀行に預けるなんてしなかったから。中学生で親元離れてね、専務の正敏さんのお家に下 宿です」。
「当時のね日給は260円。どんな頑張っても。何も買えないんだ。軍手だけ自分で買っていた。軍手30円だった。今もそんなもんだね。
食 べ物だけは困らなかった。寮に入れてもらったからなんぼ食べてもいいのさ。作業服は支給してもらってた。すぐに焼けたり汚れたりね。でもさ、家賃かかんな いでしょ。7,000円の月給に、食費4,000円の手当がついてた。そっから6,000円の食費払って腹一杯食べてたよ」。
「シゲルおばあちゃんがね、会長されていたんだけど、時々呼んでくれてさ。映画の券を買ってくれたんですよ。映画館は会社の近くにあって、南3条東3丁目にあった。東劇。一枚90円だったかなあ。お菓子、ビスケットとか粉末のコーヒーとかね」。
「今はね『取り付けさん』に頼むんだけど昔はさ、自分たちで収めるわけですよ。北海道中のガソリンスタンドなんかの窓とかね。洞爺のね5階建てのホテルの屋上まで酸素ボンベとアセチレンは背負ってさ。先輩と二人で、重かったなあ。降りるときは緊張したあ」。
「入社した頃の章社長はね、雲の上の人でした。章さんは仕事を見る目が厳しかったなあ。力さんも同じくらい厳しかった。でも章さんには大阪万博に連れて行ってもらって、大阪で一緒に遊んだんだ。仕事には厳しいけど、飲ませてくれて、楽しい人でした」。
「僕は西村社長の一個下かな。喧嘩したことあるよ。西村さんと。設計に入ってきた。こっちの仕事が間違っている、とか。図面が間違ってるとか言い合った。偉くなってからは喧嘩しなくなったなあ」。
「克枝会長はね、二個上かな。事務所にいてね、働いた後ちゃんと学校行ってた。えらい大変だったと思う」。
独立を目指して仕事を覚えた
1962年(昭和37年)に入社
「一回逃げたけど、5年で一通り全部覚えてましたね。鉄財を手鋸で切ってましたよ。鉄の窓枠やドアを作ってた」。
48年で会社を退職して、49年1月から独立
「10年たったら、独立させてやるからなって約束だったんだけど、2年待て一夫さんが言うの。オイルショックでした。一夫さんが守ってくれたんですね。独立させてもらってって言ったって、会社の工場の場所と機械借りて、元手はいらないわけでだし。営業しなくても仕事をもらえたわけです。先輩が独立し頑張っているの見てね、当時はみんな独立しようと頑張った。家賃とか電気代じゃないんだ。売り上げの5パーセントとかだから、ちゃんと払える ように考えてくれてたんだね。本当に感謝している。売り上げは月に80万から100万円。二人職人を使って、給料払って余裕あったんですよ。もちろん、売り上げのない月に備えたりだから額面全部使えるわけじゃないけどね。人を雇うってのはまたね、仕事を教えないとならないから、自分でやった方が早いと思うも のを覚えさせないとならない。これがなかなか覚えないだよねえ」。
「でもさ、やればやっただけ数字は上がるから嬉しくて頑張ったよ。家も建ったし、長男は東京の製薬会社で薬の研究してる。長女の方には孫もできた。嫁さんが いつまで仕事するんだいうけど、吹雪の日に家にいたら『あんたなんで休んでんるの』っていうから、もう少し働くかなあ。がはは」。