猪野社長

投資は自分の会社に

章さんは「株は買うもんじゃない、新日鐡とかの株を持っているけど、買うもんじゃない。金もうけにならない。博打だ」と言っていたという。現在、札幌近郊で最大級の規模の工場を持ち、繁栄する井上グループの根幹に稼いた資金は自社の設備投資や人材育成に使う考えが通っていた。

北海道の建設業には、冬の仕事の少ない時期、工場周辺の除雪をしているような風景があったりもする。
「絶対に仕事の間を開けない。工場を遊ばせない。雪が降ろうが何しようが、仕事を休んだり除雪したりしていたら、会社と社員の首を絞めることになる」北海道は冬でも本州は雪がないから、動いている。と言って名古屋の工場に飛んだ猪野社長がいた。「もちろん飛び込みじゃないですよ。ちゃんと紹介を受けて営業にお邪魔しました。どんな場合んでも人と人だからちゃんと話を聞いてもらえて、仕事をただくことはできました。うちには立派な工場とちゃんと働く社員たちがいますからね」。自分は話だけまとめて手数料を取るような仕事は苦手だという。目の前の工場をちゃんと管理して、お客様にお見せして安心していただいて、納期と品質を守る。当たり前のことだけど、井上でこれができたから生き残れたんだという。株の利ざやで暮らすことを嫌い、実業に生きた井上章さんと同じ考えに感じた。

 

猪野社長の営業がなければ、いい社員といい工場がなければ

西工場長は「猪野社長が、新規の仕事を取ってくれたのでこの会社の命があります」という。

猪野社長は言う。「仕事はあるところにはあります。優良な会社で自分たちでは回しきれないほどの仕事量を持つ会社に、工場を見ていただいて、私たちの品質、人材を知っていただいて、信じていただくことができれば、仕事を任せていたくことができます。でも、その代り、工場は整理されて、職人たちが立派で、設備がちゃんとしていないとならない。工場長はそれをやってくれている。事務所の人間たちもそれを徹底してサポートしている。それが前提なんです」

猪野社長はまた、にっこり笑いながら強調する「やった仕事は間違いはしない。現場の追加仕事はお金を貰う。もの間違って作って現場で治したらダメ。何倍もお金かかる」という。当たり前のようで厳しい要求が西さんい言い渡されてきたのがよくわかる。

「儲かっても遊びすぎたらダメなんですよ。井上は工場の跡地も資産になっています。上物を井上興産が建てて管理しているのです」と先代の経営方針をたたえる場面も多い。

 

売り上げが増えたときこそ、引き締めて投資を

2009年に大組のロボット。5,300万円の投資をしている。人間の数倍のスピードで正確な仕事をする。 この年、売り上げが27億円で、創業以来最高の数字を出した。西村社長が受け継いだ時の5倍に当たる数字だ。当別工場の借財を返して、日が差したように、利益を十分に再投資できるようになっている。2013年天吊 3,500万円。2015年は25億円売り上げ。また4500万円の投資をして一括償却の予定。

しかし、ここまで来るには、相当な努力があったことを、全社員が学んでおかなくてはならない。

「納期と品質を守れば、月末に現金を入れてくるありがたいお客様に巡り会えました。冬の三ヶ月の間も工場を遊ばせないというのを実現できたため、なんとか、工場の投資の返済をしながら、社員の給料の支払いも一度も遅れずにできました」という。

「なぜ、鉄骨屋が納期を守らないといけないかわかります?私たちが遅れたら、現場で次の仕事をする人たちにものすごい迷惑がかるのです。建物の一ですからね。絶対に守るんです」と次への配慮が滲み出てくる。いつまでも話を伺って学びたい。お客様ともきっとこんな空間を作られているのだろう。



 


西部長

31年前。1975年に入社した西さんは章社長を振り返る「面倒見のいい温厚な方。朝9時、工場回って12時に帰る。全部、仕事見て「さっぱり進んでない。あいつなんか問題あるか訊いてやれ」。いいもの見つけて「綺麗にやってる褒めといてやってくれ」と細かく情報をくれた。自然と工場管理の視点が西さんにも染み付いたようだ。仕事は任せてくれた。力さんは仕事と営業。工場を任せてくれた。責任持ってやってたから。入ってすぐ。設計をしながら現場で打ち合わせ、工場のまとめをやることになっても苦ではなかったという。今、また、猪野社長のもと、のびのびと働かれている。



井上力さんは、井上鉄鋼創業社長の章さんの24歳離れた末の弟であり、養子になった人である。猪野社長は「力さんは、面倒見のいい人。我々と同世代だから。飲み連れてってもらったり。人の付き合いを教わった」という。力さんと井上さんは同業者の営業同士。ライバルというより面倒見てもらっていたと。「これうちはいいからイノちゃんやれや」「こっちはうちがもらうわあ」とぶつかり合うのではく、よくコミュニケーションをとる中だったという。
力さんは業界団体札幌の支部長を務める人格者だったし、よその会社でも先輩は先輩。譲り合いがあったという。お互いの仕事を認め合っていたことが、病に倒れた力さんがどうしても、猪野さんあとを任せたたいと人に頼んだ経緯なのかもしれない。2001年4月猪野さんは井上鐵骨株式会社の社長に就任する。力さんは病で2000年亡くなり、兄で井上鐵工の社長だった一夫さんが兼任していた。