こちらで 扇状地の成り立ち を記述

 札幌市内には幾つかの扇状地があります。その中で最大、豊平川の作った扇状地が札幌の都心の基盤です。真駒内(標高80メートル)を扇頂、札幌駅とJR北海道函館本線のあたり(標高20メートル)を扇端に南北8キロ程度のなだらかな斜面です。

札幌市博物館活動センター蔵

 この扇状地は西側から東側に向かって時代をおって形成しました。写真緑色の西端、藻岩山麓(円山、三角山等)の裾の近くは10,000年から5,000年前。写真黄色の中央部が3,500年前、写真オレンジ色、月寒丘陵側の西端は2,000年前。縄文時代から続縄文時代(本州、四国、九州では弥生時代中期)頃までに起きた土石流が作った砂礫の土地です。地下の岩盤と扇状地の堆積砂礫の間を伏流水がながれ、先端で湧き水となって流れ出します。

古代アイヌ文化の成立は12世紀、鎌倉幕府との交易による富によった考えると、アイヌが先端の湧き水を「メム」と呼び、その周辺に集落「コタン」を作ったのは、この時期からと想定出来るかもしれません。最後の巨大土石流からは、120年の月日が経っています。そして、鎌倉との交易の柱の一つとなる、オオワシの羽を採るにはには十分な湿原が札幌の北側に広がっていたと考えられます。

緩やかな扇状地の浅い川、豊平川は、自然下で、雪解け、大雨の度に流れを変えます。写真中央の黄色の部分に有る湧き水、コツネイと呼ばれた現在の北海道庁、植物園、伊藤義郎邸のある地域にアイヌが暮らし始めた時点では、扇状地の西側に限定した氾濫だと考えていいかもしれません。
豊平川から別れた多くの細流が、氾濫時に本流になったり、戻ったりしていた様子がうかがえます。

 

札幌で初めて稲作を成功させていた早山清太郎が島義勇に提言した札幌神社(後の北海道神宮)の場所は、コタンベッ。円山の裾野の緩やかな丘で、決して水害に合わないことがわかります。

清太郎に継いで、元村を開村した大友亀太郎は写真、中央の黄色の部分が、函館本線の北側に尖っているところ。これも扇状地の端をうまく利用して、湧き水があり、水のつかない安全なところに村を置いたことがよくわかります。