開拓使10年計画 について知っていることをぜひ教えてください

 

開拓使10年計画

 

気候環境が似ていて、開拓の経験が豊かな国アメリカから指導者を得るという考えで黒田清隆は、明治4年1月に他の次官一行を伴ってアメリカへ渡る。ワシントン駐在の同郷の森有礼次官の斡旋により、グラント大統領に会見し、4年の契約で農務局長(現職大臣に相当する)ホーレス・ケプロンを招くこととなる。ケプロンに依頼した職務内容は広範囲に渡るもので、「雇用した外国人技術者を指揮統括しながら北海道の開発計画や各種の調査事業、そして、様々な産業の振興事業に関する意見や指針を黒田へ具申し、それらの事業を行う」というもの。

 

明治5年から15年までの10年計画で定額1000万。依頼内容は以下のような事柄。

 

  • 屯田兵村の創設から道路
  • 鉄道の建設
  • ビール・ぶどう酒・紡績・鮭や鹿の缶詰・味噌醤油の醸造所
  • 船舶・倉庫などの建設
  • 石炭・金・銀など鉱山の開発
  • 農業試験場・農場・牧場・農業機械や新品種の牛、馬、羊の飼育
  • 農業者の養成・学校などの教育施設の創設・人材の発掘

 

単なる想像やイメージというのは恐ろしいものだと思った。「蝦夷地の開拓」という文字を単にとらえていた自分は大きな間違いをおかしていたことに気が付く。言葉の使い方がいささか貧弱ではあるが、私が抱いていた蝦夷地の開拓とは、未開の土地に来たならば一旗あげられるという人たちや、強制労働を引いられる何らかの事情を持つ人たちが中心となっていたと思い込んでいたところがあった。開拓を推し進めるにあたり、海外からの指導者の雇用や、その依頼内容を始め、建設事業などでは高技術を必要とする関係から、日本中から腕利きの職人を東京に集め、技術試験を行い、労働時間や、賃金、開拓に関わり健康を害した人に対しての手当などの取り決めもなされていたことを知る。事実を知るということに新たなる感動を想う。

 

※情報は、札幌ものがたり(札幌のあゆみを知る)より抜粋させて頂きました。

 

「2017/10/9 環」