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ワタベインフィル株式会社 
〒60-0005 札幌市中央区北5条西9丁目4-1 ツヅキビル TEL 011-280-5050 FAX 011-280-5111

 

 1947(昭和22)年、夕張で畳店として企業。炭坑の景気で安定した経営を続けた。政府のエネルギー転換政策を受け1968(昭和43)年には札幌市に支店を出し、1975(昭和50)年には夕張を引き払って本社移転している。炭坑の廃山、住宅環境の変化に合わせて会社の事業項目を変化させる。板の間と畳のある座敷が主役の住まいから、カーペット貼の階段、フローリングやカーペットの居間、ダイニングが主流。畳はリビングの一角を担うようになる。会社は畳の製造、施工に加えて、内装全般に仕事を発展させる。施主の立場を知るため不動産業を開始、特殊な消音資材の施工のフランチャイズを取得。
 


渡部裕史さん


 「中学校のときね、新聞配達をしたんですよ」と嬉しそうに話す渡部さん。「なんか、働くのが大好きみたいで」という。

 

 子どものころ、会社を経営していた父親からは、贅沢にものを与えられることもなく、母親もお父さんを立てる人だったので、疑問を持たずにすごした。決して貧しくない、むしろ裕福な家庭であった。

 

 「勉強しろって言われたこともなかったですね。勉強は学校ですればいい。家でするなと」。渡部さんはちいさなころか、友達とも楽しくつき合い、外でも遊ぶし、スーパーマリオ全盛期のファミコンでも遊ぶ。学校や勉強が嫌いになることもなく、楽しく 過ごしていた。生活は充足していたので、特に何が欲しいということよりも、自分で稼いで、自分で使えるお金を持ちたいと思って、新聞配達を始めたという。


 札幌の場合、公立高校に入学することを多くの人が目指すので、受験は公立高校が難しく、入学のしやすい私立の高校を予備に受験する傾向がある。ところが、父には「公立に合格しないのであれば、無理に高校に行く必要はない。働きなさい」と言われる。何でもまじめに取り組むので、高校も合格し、大学にすすむことに。道外の国立大学を目指すと今度は「北海道で働く気なら、北海道の大学にしなさい」と北海道工業大学(現在の北海道科学大学)を薦められる。清田の自宅と手稲の大学を往復する札幌横断の長距離通学路。この中間地点のガソリンスタンドにアルバイトを求め、4年間努める。「距離が遠いですからね、車で通ってたんで、ガソリン代が安くなるなあとか、途中休憩出来るなと思ってね」。大学を卒業して直ぐに父親の経営する会社に入社、親子で経営の改革を楽しむように追求する。


 祖父が始めた畳屋は、夕張の炭坑の景気で羽振りが良かった。長男だった父は当時の北海道では珍しい京都の大学にすすむ。卒業して帰郷した父は、60年代の政府のエネルギー転換政策を受けて、いち早く創業者を説得。夕張を離れ、住宅や事業所の増え続ける札幌へ本社を移転して、畳の職人の仕事を守り、家族を守る。住宅事情は変わり、無垢の板の間が無くなり、内装はカーペットや新たな床材、壁紙の世界に変わる。畳は無くならないが主役ではない。住宅の内装の全てを扱い、畳の販売と施工も続けられる構造を作って行く。渡部さんは一家が札幌に移り住んだ後、現在清田区の北野で生まれ育った。

 

 「内装って、建物の仕上げだから、最後にしわ寄せがくるんですよ。うちの職人さんたちが、一番苦労するんです」と渡部さんは言う。設計図との施工のずれはどんな現場でも起こり得る。たとえば基礎や柱がほんの数ミリずれると、壁の下地のボードがずれる。本来無いはずの歪みや隙間が産まれる。壁紙の職人たちが隙間を埋めたり、補正したり、下地を整えてから壁紙をやっと貼付ける作業にはいることができる。本来の仕事ではないことで手間も時間もかかる。下地が悪いと、仕上げにものちのちクレームがつきやすい。施主に見えるのは壁紙だから、苦情はそこに集中する。勿論、頑張った分だけお客様にありがとうといわれる嬉しい場面のあるのだけど、その喜びを直接聞くことのできるは営業をしている渡部さん達で、職人が施主に褒められる場面はめったに作られない。

 「まじめなね、職人さんたちがね、その技術を直接、お客様から褒められて、尊敬されて気持ちよく働けるようにならないか。施主にとっても、この人に、良い仕事してもらったんだと、気持ちのいい施工にならないものかって考えるんですよ」。

 

 しわ寄せは、現場だけではない。経営にも直撃する。ゼネコンなどの元請けからもらった仕事を丁寧に仕上げて、ギリギリの経費で、資材や手間賃を払ってなんとか納めたところへ、資金繰りに失敗した元請けが倒産するということも起こる。渡された手形は紙切れになる。
 自ら元請けが出来るようになることと、弱い立場で請け負うのではくて、指名され、喜ばれる独自の技術やサービスを持つこと。これが親子二人で出した結論だった。社長である父と心を合わせて10年間の改革が始まる。

 まず一つ。

 当時、既に、岩綿(ロックウール)の天井材が普及していて、メンテナンスの時期に入っていた。発癌性や空中浮遊で肺を壊すと禁止になった天然鉱物繊維の石綿(アスベスト)にかわる鉱物原料の人口繊維の代わりに殆どのオフィスの天井が岩綿になっていたのだ。

 ところが、これも燃えない鉱物繊維。汚れが目立って取り替えるとお客様には廃棄料と新しい建材と施工の費用が一度にかかってしまう。社会的には産業廃棄物の処理場を埋めてしまうという問題が起こる。岩綿は繊維にタバコの脂などでの汚れが入ると排除出来ない特性を持っていた。従来の塗装をすると、吸音の特性が失われる。そこで、お客様にとっては、張り替えの費用よりも安く、クリーニングをして、吸音も効果もそのままにできるのがいいに決まっている。クリーニングと吸音効果を残す酢酸ビニル樹脂混入シリカ粉塗料を吹き付ける技術のフランチャイズを取得した。社名も現在のものにかえて、技術とブランドの構築に参加した。当時、渡部さんはこの件で、徹底した営業を展開する取締役営業部長だった。経費と施工品質で、お客様に指示されるため、元請けとも対等の立場で仕事の依頼がとれるようになっていった。

 もう一つ。

 「請け負うって、負けるって字が入るでしょう。負けちゃいけないんじゃないかって」。お客様も自分たちも、職人さんたちも、皆勝たなければ。「お客様のご要望を直接伺える、元請けをできるようにならないといけな いんじゃないか」。元請けには元請けの責任がある。この緊張はやってみて分かった。建物のあらゆるトラブルを想定して、保険の限度額を最大に引き上げる。信頼を勝ち取りながら、大手ではできないきめの細かい提案で、元請の業務を獲得する。そして、商習慣を改善する。手形は受け取らない。振り出さない。つまり、金融上の危険を根本的に減らし、取引先と一緒に安心して仕事を組める環境を作った。

 

 元請け業務の拡大と新技術の導入による施工の強みが二つ呼び合って、会社の経営は安定する。同時にお客様との関係も親密になる。「内装だけやっていたとしても、電気も、水道も、基礎も外観も、建物のこと全部を勉強をして、最後の仕上げをするので、私達も愛着をもつんですけどね、施工がすんだら、私達はまた、次の物件に向かってしまうんです。お客様は何十年も建物の利用をされるけど。施工するだけじゃなくて、長くおつきあいしたいものです」。

 

 さらに、もう一つ。

 「施主の気持ちを知りたくなったんですよ」と、渡部さんは宅建の免許を取り、お客様と同じようにビルを取得してビル経営を体験する。大家の立場を知ること、実際に使う入居者の立場を知ることで、新たなビジネスの糸口を掴むことになる。計画したり、メンテナンスすることのなかに、業者がやるよりも、お客様ご自身がされたほうが「楽しい」こともあるのではないか。本来、建物はお客様とともにつくり、成長させるもの。「頑張っている人たちを応援する仕事は、みんな成功しているんですよね」。そうか「請負から脱却する」するには、特殊な技術でお客様に選んでもらうこと、元請けができることに加えて、お客様の目的を応援することなのか。お客様のご商売、楽しみ、生活を応援する企業になれば、職人達の技術は尊敬されるものになってゆく。施主、大家さん、元請け、施工、そして経営の全てを体験している渡部さんが、これから先、街にどんな提案をしてゆくのか楽しみでならない。

 建築業でのinfillは内装の他に間取りや設備までを含む言葉。inとfillに分けると、fillは満たすとか塗りつぶす、風が帆を膨らませるという意味だ。infillは隙間を埋めるという意味合い。転じて、充填材や、塗料、壁材などをさすこともある。一方で、社会的には都市の未利用の空間や欠落した機能を埋めて行くものを意味する。渡部さんとワタベインフィルは文字どおり、街、企業、人々の間隙を埋めてくれる企業だと感じた。

 お父さんは10年にわたる経営改革を終えて、30代の渡部さんにあっさり会社を渡して海外へ移住。「あとは、続けるなり、つぶすなり勝手にやれ」と。でも「飯がまずいなあ」とか言って今は札幌に戻っているという。父親の真の計画は後で分かる。無駄遣いをしない。 稼いだ中で回せるように。無理をしないで、自分が必要だと感じることを地道に勉強出来るように、厳しく育ててくれた。若いうちに経営を任せたと思うと、その場を離れて、素早く自立させてしま う。「父は自分の父親と一緒にやって、しんどい思いをしていたようで、近くに居ると余計な口を出すからと、オーストラリアに行ってしまったようです」 と渡部さんはいう。父親の古希のお祝いに、自然に湧いた言葉を手紙にしたためた。平日は家に帰られないほど仕事に没頭。それを許してくれる奥さん。休みの日には顔がくっ付きそうな距離に引っ付いてくる息子と過ごしながら、分かったことがある。厳しく育てられたこと、会社を引き継げたことを「宝」だと素直に感謝した。

 


2014.6.4 杉山幹夫