こちらで 株式会社さくら生花を記述

株式会社さくら生花

〒065-0008 北海道札幌市東区北8条東18丁目3番地
TEL(011) 742-4287
FAX(011) 742-4487

札幌の生花店。冠婚葬祭の式場を花で演出、贈り物の制作する会社。壁面緑化、立体的な祭壇の制作を得意とする。
 



株式会社さくら生花
佐藤直也(さとうなおや)さん


 「山に泊まる!」小学生も低学年のころ。直也さんの札幌市清田区の自宅の目の前に川が流れていた。川を挟んだ先は「山」。札幌の南西に広がるなだらかな丘陵だ。丘は支笏湖が噴火したとときに降り積もった火山灰で出来ていて、厚別川が削った谷がある。「山」にはどんぐりや楓の繁る深い森があった。少年直也はハックルベリーのような生活をしていたという。仲間と森のなかの地形を利用した横穴を堀り、家のガレージからいろんなものを持ち込んだ。居心地のいい「基地」の空間を作っていた。

 

 家から見えるこの「基地」に、どうしても泊まりたい。少年は自分の創り上げた森のなかの空間で満足した眠りにつく。息子の奔放を楽しむ建設業の父親とやはり自由に遊ばせてくれる母親のもと、森のなかの暮らしを繰り返した。

 毎日仲間と一緒に遊び尽くした幼年期から思春期に入ったとき、彼の心に深く刻まれる事件が起こる。親友の一人を交通事故でなくしてしまった。彼の目の前で起きた事故と、ご両親の悲しみが与えた彼の心の痛みも計り知れないものだった。

 高校を卒業してホテルでバイトをしているときに、結婚を祝う花とフローリストに出合う。「人の役に立つ人間になりたい」と思っていた彼の心に「花」が宿っていた。好きになった人を追ってオーストラリアに旅立った。そこで、世界中を旅していたバックパッカー達に影響される。

欧州へ。仕事を探す中で「花」が彼をオランダに引き寄せる。

 直也さんは邦人も活躍する世界の生花流通の中心地フローラ・ホーランド(旧アルスメーア)の巨大生花市場に職を求めることになる。既に市場経済が成熟していた16世紀のオランダにチューリップが伝わった。17世紀には球根の価格が大高騰のあと大暴落を引き起こす。200年前から市場が花に価値を見いだしていたことがわかる。現在の生花市場の創設も100年以上遡る。「花」を仕事にする人たちに囲まれて、花の流通のシステム、花にまつわる技術、欧州の深い花の文化が身体に入りこんだ。

 

 帰国した直也さんは、生花店に就職。そこで、日本、そして北海道の花の道を学びながら、自然に葬儀と向き合うことになる。当時、亡くなった方のご自宅に枕花(まくらばな)をお届けしたことが、いつまでも胸に残る。亡くなった赤ちゃんに寄り添う若い夫婦の前で、花を生けていて、手が震える。悲しみを吸い込んで涙が溢れそうになる。その場を離れて外に出た。直也さんはこんな僕に何ができるんだと自分に問い続けた。

 部屋に戻ると、あと数輪で完成するというときに、ご両親に声をかけた。「お生けになりませんか」悲しみの極みのなかで、震えていた自分を忘れて、なにか一つでも役に立ちたいという思いが言葉になっていた。ご両親の悲しみは変わらなくとも、手を動かして、一緒に花を手向けて下さった。「絶対にこの気持ちを忘れない」直也さんは社員とともに創り上げる祭壇も、出来る限りご遺族に最後の数輪をさしていただくようにしているという。

 札幌に株式会社ベルコの斎場が出来たとき、直也さんは師匠のもとから派遣され、一人黙々とお葬式の花を作っていた。その姿を見た当時の札幌の責任者は直也さんと一緒に北海道の仕事を創り上げることを決意をしていた。師匠にも応援してもらう形を作って頂いて独立させてもらったという。育ててもらった会社を出るときには、ワゴン車いっぱいに花の道具や資材が詰めこまれていた。師匠が思いを込めて直也さんを送り出したのだ。泣くと運転できなくなるので、なんとかこらえて独立を果たした。

 株式会社さくら生花の誕生だった。


 ベルコ札幌会館の花卉室にさくら生花の本社がある。といっても殆どが作業を優先して、数個の事務机あるだけだ。冷たい空気と花と緑の匂いに包まれている。出迎えた社員は皆さん一瞬手をとめて、集中していた顔から、柔らかい優しい表情に変えて挨拶をしてくれる。神聖であり、居心地の良い空気だ。
 

 直也さんは頑張りすぎて体調を崩し、社員にも家族にも迷惑をかけたことがある。「自分一人で会社をなんとか出来るもんじゃない」。社員に依拠して、社員に成長してもらって始めて会社が生きることを学んだ。成長して行く社員と家族に支えられる。一所懸命札幌の街を思って活動した青年会議所の仲間にも。
 お客様の心に寄り添うと同時に、社員を守るために真剣に考えて行動する直也さんがいる。経費の多くを社員の研修に使う。自分の若い頃の旅の経験が生きる。アジアや欧州で社員とともにそれぞれの国の葬儀の文化を学んで来る。宗教が違っても、大陸が違っても、愛する人に花を手向ける姿がある。文化の違いと独特の造形を触れることが出来る。直也さん達の生み出す彫刻のような造形美が、亡くなったかたの大好きだったものを表現する。家族の思いに寄り添い、葬儀の花をつくりあげるために、花についての技術のほかに、多くの文化から学び続けることが大切だと。学ぶことで、仕事に向き合う社員のみなさんの強く優しい心が産まれているように感じる。

 震災の年、ベルコは全国のグループ企業、取引先にいち早く呼びかける。自衛隊や自治体職員が毛布にくるんでくれたご遺体を丁寧に納棺するために手弁当で集まり、学び続けた仕事を捧げる人々。顔が見えるようにお整えされたあと花が手向けられた。直也さんも名取市閖上に立っていた。縁があって、名取市の祭壇も直也さんたちがさしているという。

 2011年、もうひとつ、直也さんにとって大事な出来事が起こる。16歳で亡くした友人のためにとうとう花を作ることができたのだ。花心に緑を残す白い小さな菊をさした。両の掌に入る毬。この小さな球体の上に少しの綻びがある。そこから数輪の菊が次々に天に向かっている。

 「これは自分を守る為に作ったんだと思います」という。花を通して真っ正面から、友人の死と向き合ってきた。毎日、胸をえぐり続けた。

 

 幼い頃の森の思いで。初夏の札幌の明るい木漏れ日と太陽を透かして見せる柔らかい緑。水の匂い。その中で友達と創り上げた空間。花に呼ばれる旅。

 亡くした友人、花の職人として向き合うお客様への思い。

 球となり、珠の傷から空に向かう花。

 普通、葬儀の花を作りたくて花屋に成る人はいないかもしれない。でも花を扱うと、必ず、祝いだけではなく、悲しみの場にも向き合い、花屋は花を知る。「若い人が、勉強出来る環境をつくらなくては」と業界全体で人材の育成を考えているときに、嬉しいことも起こる。直也さん達の仕事をみた若者が、葬儀の花の勉強をしたいと入社を希望してきてくれるようになった。

 ある日、直也さんはポートランドの丘に立っていた。森の畔で結婚式をあげるお嬢さんに呼ばれたのだ。しっかりとした眼差し、美しく成長した彼女も直也にいちゃんにはまだ甘えん坊。二人は清田の小学校で知りあった。一年生の彼女のお世話係に任命された直也おにいちゃん。それからずっと兄妹のような交流が続いている。直也さんは西海岸に飛び、結婚する二人の家族と友人とともに近くの花畑で花を摘み、花器を集めながら荷車につんで、森の式場まで歩いた。晴れ渡る空。それぞれの思いで花を生け、みんなでアーチをつくり、直也さんは花嫁のブーケを作った。花を飾る原点に、心を戻してくれる結婚式だったという。

 


2014.5.28 杉山幹夫


35年を経てようやく友人に捧げることの出来た玉響。誕生の祝いに送りたいものにも見えた。それは必然なのかもしれない