「私、認知症でも。なんも困ったことなかよ」

 

だってみんな助けてくれるんだもの

「私、認知症でも。なんも困ったことなかよ」っていうおばあちゃんがいるのと、佐々町の在宅支援を推し進めてきたケアマネージャーの一人、大浦さんが大笑いする。

「私ねおしっこも忘れるけど、周りの人が、おばあちゃん、そろそろトイレ行こうって誘ってくれるの。失敗したことなか。あっても覚えてないけど」ってがっはっは。このおばあちゃん、バリバリ認知症なのよ。

「私ね、ここにきても家にも帰られないの。でも、おじいちゃんが迎えに来るし。バッグなんて、いつも忘れるけど、佐々だと、必ず家に届くとよ」って。いつも包括ケアセンターで笑わせてくれるの。がっはっは。

認知症の方も色々なんだけど、本人にもちゃんとどう暮らしたいかって希望があって、家族だけじゃなく、周りの知り合いがみんなで少しだけ手伝いをすると、ずっと自分の家で暮らせたりするの。そして、家族も、周りの人も幸せな思いをするのよ。

大浦さんは五島で生まれて佐世保で育った。日親が佐々で働いていて「佐々はいいわよ。人が。とても過ごしやすいの」と聞かされていた。人の世話を焼く姿をよく見せてくれていたお母さんの影響か、大浦さん自身、障害児と過ごすことが自然で、物心ついたときから、福祉の仕事をすると決めていた。重度の障害児のいる施設で働いたとき、休日に家族が迎えに来れない子は家に連れて帰る。そんなことも許された時代があったという。1日じゅう、手を叩いていたり、奇声を発したりする子と一緒でしょ。最初は周りもびっくりしてたわという。

しかし、その子達と付き合っていると、だんだん、嬉しそうにしているとき、ご機嫌のいいときが分かるようになる。ふと、お世話をしているというよりその子達に救われて生きていることになる。結婚して佐々に移り住んだとき、新たに生きる糧を大浦さんは佐々に来てやり直すことを決意する。勉強して、ケアマネージャーの資格をとり、社会福祉協議会で働くケアマネージャーをとして、一時期に、80件を超えるお年寄りのケア計画を作成き、管理していた。

 

劣等ケアマネージャー

「私は劣等生。劣等ケアマネージャーなの」と神妙な顔をして見せる。ケアマネージャーのお給料はケアする人の数多ければ多いほど、事業所の負担を防ぐことになる。

「だって、介護する人が減ると、施設は儲からないでしょ。介護認定が外れたら大喜びなんですもの。こりゃ事業所の経営者に申しわけないです」社協時代、大浦さんには苦い経験がある。認知症になり始めたおばあちゃんを地元の人が見つけて知らせてくれた。みんなが、おばあちゃんのためにと、病院に入る手配をする。

私もね、おばあちゃんに買い物に行こうって嘘までついて、病院に連れって行ったの。本人は家にいたいって言ってたのに。結局それが、おばあちゃんの認知症を一層悪くしたとおもうのと思い出して泣きそうになる。こんなことではいけないと思い、泣きながら、私は嘘をついてしまったと話したらね、江田さんは一緒に泣いてくれたという。

 

家にいたい人は家にいてもらう

家にいたい人は家にいてもらう。そんな努力を地元の人たちと一緒にしようという気持ちを固めることなった。施設に入らなければケアをできないケースはもちろんある。でも、自分で生活すること、人の手を借りながらでも自分のできることをして暮らすと、認知症の症状は進みにくいものになったり。おばあちゃんの異変に気づくのは地域の力。それをもう一歩進めたい。みんなが認知症のことをよく知って支援すれば、最後まで自分の生きたいように暮らして貰えるのではないか。

「地域を信じましょう」という江田さんとともに32ある自治会の全てを周り、在宅支援の体制を組んでもらうことになる。

私ね、あと一年働いたら引退しようと思つてるの。そして、夜9時で終わるバーをやるの。おじいちゃん達に楽しんでほしいから。お酒の量も、食事の栄養もちゃんと管理してね。お風呂のあと、ビール一杯ぐらい飲ませたあげたかと。男の人は、夕方、やることないと本当に寂しいのよ。だからね、夕方楽しくお話をして、夜はぐっすり寝てもらうの。デイケアの時間を広げて夜お風呂に入った後に一杯だけでもビールのまして帰らせてあげたいと、夢が終わらない。