もっと活かそう、あなたの「まち」の可能性 ―阿智村清内路地区に学ぶ― について知っていることをぜひ教えてください

2015年11月15日  · 

長野県地方自治研究センターの機関誌「信州自治研」2015年11月号に高橋寛治さんの「もっと活かそう、あなたの「まち」の可能性 ー阿智村清内路地区に学ぶー」が掲載されました。高橋さんから原稿を送っていただきましたの共有します。(土屋)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もっと活かそう、あなたの「まち」の可能性

―阿智村清内路地区に学ぶ―

地域プランナー 髙橋寛治

 

本リポートは、2015年7月24日に開かれた「みどりネット信州・政策研究会」における講演を編集部で要約したものです。

 

 

はじめに

ただいまご紹介いただきました髙橋でございます。飯田市を活動の拠点として人口1000人以下の集落再生を手がけています。それは21世紀という時代は山村が主役になるであろうと確信しているからです。その中で今日は6年ほどお付き合いをしている下伊那郡阿智村の清内路地区の具体的な現況を話ししながら、山村の未来を考えてみたいと思っています。よろしくお願いいたします。

さて清内路地区は上清内路が200人、1㎞ほど離れた下清内路が400人で、併せて人口600人の旧村ですが、平成21年3月31日に阿智村へ編入合併しました。でも、そのような小さな山村で人口が増えてゆく兆候がみえだしたのです。平成25年には住む人が16名増えました。普通、人口は1%伸びるのが順調な伸び方だと言いますから、清内路は大きく増えてしまったのです。翌年リバウンドが来て大きく減りました。でも私は将来へ向かって確実に伸びると見ています。

 自分の身につまされるのは飯田市の現状です。平成17年10月に遠山卿の南信濃村や上村が編入合併をしましたが、人口は減り続け2,3年の内には10万人を切るのではないかと心配しています。さらに合併をした遠山郷は「霜月祭」という神楽が続いている谷間ですが、市の美術博物館へ面など祭りの用具を寄託する集落が生まれています。集落で祭りが存続できなくなっているのです。この事実は集落機能が弱くなったことを示すものであり、この本質に手を入れない限り祭りだけが続くはずはありません。したがって、集落内での人口が伸び、そこで安心して生活ができる地域をつくることに取り組まないかぎり、イベントなどで祭事の所作を披露しても意味がないと思うのです。

 

 

清内路地区と人の動き

清内路の人口増加には2つの動きがあると思っています。ひとつは出身者が戻って来るUターンです。二つ目は清内路に住みたいという思うIターンの人も来ることです。ここへ移り住む方は手に職を持っていることが基本です。要するに「あそこに住みたい」と言われる地域はどのようにしたら出来るかが問われているのだと思います。

この間も20代の女性の方が岐阜県からふるさとへ帰って来たので、公民館研究集会へお招きして彼女に発表をしていただきました。僕が司会をしていたので、「何で帰って来たのですか」と聞くと、「花火づくりをやりたかった」明快です。清内路では花火師の資格を持つ人が100名近くいて秋の奉納に向けて汗をかいているのです。「何で花火ですか?」と聞くと、お父さんが花火を打つ姿が「かっこよかった」と言うのです。今ではお父さんと娘が一緒になって火薬を擂り、花火を作っています。また彼女の職場では、8月、9月、10月は「残業をしません」という条件で採用をしてくれました。その3か月間、花火づくりで残業ができないのです。ここから見えてくるのは、職場のある場所に住むのではなく、自分の住みたいところに生活をしてそこで職を考える、一般とは逆の動きが見えてくるのです。

 

 

なぜ故郷に帰ってくるか

 次は40代の男性が名古屋から戻ってきた例です。清内路から名古屋へ就職した人は、金曜日になり仕事が終わると「土日は清内路に戻りたい」と思うようです。家へ戻ると5合ビンを片手に誰かの家へ出向くそうです。すると、それは「酒を飲みながら話をしよう」というサインなのです。そのように帰郷を毎週続けていると、そのうちに「もうこっち(清内路)へ来て職を探す」と言ってUターンをしたのです。その基本は、今でも平気で他人の家へ寄り込むことが続いている事実です。この付き合い方は清内路地区の将来を考えている振興委員会の席でも似ています。先日の会議では全員がお重を一重持ってきて酒を飲む会でした(別途、飲み物の代金は1,000円払います)。夜7時からの会議を終えて飲み出せば、10時になってもテーブルの上には沢山の肴があり、話を続けるうちに夜が更けてゆきます。

今度は清内路へ戻ってきた若者の話しに続けてみます。振興委員会のメンバーで最も若いM君です。彼は消防署の職員ですが清内路から通っているのです。消防は上伊那と愛知県の間を全て職域にしていますから勤務先は結構遠いのです。かつ消防の勤務は変則的なうえに遠くへの出番があるので「何で清内路に帰ってきたの」と聞くと、大学まで出してもらって「親に世話になったので、帰るのが当たり前」と言われてしまいました。それを尋ねた私は何も言えないわけです。また、別の若者に「何で帰って来たの」と聞いたら、「勤めていた会社の人員整理」でした。それで家へ戻って同級会に行ったところ「消防団を一緒にやらないか」と言われたのです。そこで「消防団へ入る」ことを決めてから職探しをしたわけです。つまり同級生と話をして消防団を一緒にやらないかと誘われたことから故郷へ戻ってくるのです。

このようにふるさとへ戻って来る人には幾つかの共通点があります。一つは戻っても居場所があること、さらにお父さんとお母さんの仲が良いことが二つ目の条件だと思っています。したがって仕事の勤め場所から住む所を決めるのではなく、住む場所からどのように仕事をクリエイトするかが基本です。

また、この頃20代で帰ってくる若者が「高橋さん、飯田はどのようなまちを作ってきたか話してください」と頼まれることがあります。その時に「なぜ都会から帰って来たの」と聞くと、会社に勤めを続けていると、「自分の30年後の姿が見えてしまう」と言う。つまり今の会社の中で自分の未来が見えてしまうのです。都会の人は皆がこの不安を抱えています、でも現実には帰れないまま生涯を終えるのです。そのときに山村が用意できるのは豊かな自然とゆっくりした時間だと思うのです。山に手を入れる、美味しい水がある。その中で互いに誰がどこに居ても分かる関係、その中で助け合う暮らしがあることではないかと思います。

 

 

顔が見える関係で繋がる

 このように互いの顔が見えるのは山村の特徴です。先日も海外から来た方とお話をしました。ご主人が海外の方なので名古屋にいたときには、子どもが「外人、外人」と言われ困ったそうです。清内路に移り住んだら誰もそんなことは言わない、地域の中で分かってしまうのです。逆に一番下のお子さんが保育園に行くようになったら、「朝9時から午後3時まで、空いている時間に手伝って」と福祉施設から言われました。関係の分かる世界では職安の仕組みを地域が担う、自然にそのような環境を作っていくことが大切だと思います。地域社会の中で、このように互いの支えあいを学ばないところは21世紀の社会から遅れを取ると思っているのです。

また清内路で話題が広がっているのが「いろりの復活」です。いろりは普通に考えれば暖房の場です。2つ目は食事をする生活の場。3つ目は夜なべ仕事をする所です。4つ目は客人を迎える接客の場所です。つまり、ひとつの場にたくさんの価値を重ねていくことも集落の中で続けることが確認されています。

上清内路、200人の集落の峠近くに長田屋さんというよろず屋さんがあります。でも、この小さなお店が9人の職場になっているのです。朝の2時に来てお豆腐を作るおじいちゃん、5時に来て豆腐をパックに入れるおばちゃんが2人、8時半に来て岐阜県と長野県側へ配達をするおじさんが2人。そして家族が4人で店を切り盛りしています。かつ清内路はみょうがの産地です。9月の出荷時期になるとみょうがの集荷と卸しをしています。お年寄りの生産ですから、良いものから小さいものまで入っています。でも、それを全て売ってあげる。JAの役をこなしながらお年寄りの生活を支えているのです。

この間も長田屋さんに寄っていると「血圧計の電池が終わっちゃった」と電話がありました。「あそこは単3だ」と届けたついでに取り替えてくれるのです。つまり山村のお店というのは、物を売るという動脈の作業も大切ですが静脈部分も担う。気軽に電池や蛍光灯を換えることが基本です。

 

 

大切なのは「地域のありよう」

そのような地域へ3年前にパンの専門店が一軒店を出しました。続いて2軒目が今年の4月にオープンしたのです。お客様が多く、昼に行くとパンが売り切れて買えないのです。仕方がないので先日は朝9時の開店に合わせて買ってきました。清内路出身のお嬢さんが2年間ドイツで修行をして戻ってきました。普通に考えると町へ店を開きたいと思うのです。飯田の市街地で開いた方が何となく売れる気がするのです、でも上清内路の200人の集落で二軒目の店を開きました。

店で働くのは4人、ドイツから帰って来た本人、同級生、お母さん、それに中学校の担任の先生です。先生は退職後の手仕事が夢でしたが、生徒からの「店に来て手伝って」を快諾、今は店の奥にあるカウンターに立っています。先生に聞くと「大学の時にアルバイトをした喫茶店の経験が、やっと生きた」という関係です。

このように山の中のパン屋さんだから近所の人のたまり場になり、地域の人たちが互いに使い合っています。清内路の皆さんは何かを話したい時は「あの店へ行かまい」とコーヒーを飲みに来る環境がある、これが安心して新しく開店する基本になっているのです。都市で店を開けば自分の手で客を確保することになります。それに比べて「このパンは余ったの…」「じゃあ、買ってくに」という関係ができないと、山村での商売は難しいのです。

またガソリンは皆が地区内のガソリンスタンドを使っています。つまり安心して生活を続けるためには価格ではなく、地域のお店を使うのです。この日々の生活のありようが私たちにも問われているのです。この小さな経済の世界から日々の考え方や行動を変えてゆく必要があるのです。このように清内路経済圏という縛りを育てていかないと、逆の立場にある飯田市の大型店やDIYの、品揃えと安いという論理に巻き込まれてしまうのです。日頃コンビニを見ていると棚いっぱいに品が整っています。山村を支えるよろず屋さんではあのように全部の物を揃えることはあり得ません。ですから全ての基本は「清内路」という地域、この場を常に考えなかったら地域が自由競争で壊れてしまうのです。だから清内路で続いている、この「地域のありよう」が大切なのです。

 

 

豊かな山村の歴史に学ぶ

 大切なことは、取り組みによって地域の未来は全く異なるものになることです。阿智村として山間部の課題は人口の減少と集落の維持、それに地域での定住と再生のモデルづくりです。

具体的に人口減少とした場合、外部からの人材は縦糸であり地域が横糸になります。そこで清内路が考えた「生業と定住の思想」、それは仕事(経済)から考えて定住するのではなく、地域活動へ参加することによって定住することです。その中で使われている知恵は「中核的教育」の復活です。中核的教育は、昭和50年代に各地の小学校が取り組んだ教育実践であり、少人数の子どもと学校の活性化プログラムです。その仕組みを現在に当てはめると少人数の地域の活性化プログラムに読み替えることが出来るのです。そのときには地域の過去、今までの歩みを確認することが大切です。したがって常に勉強会から入ることが基本となっています。

 

 

山村の過去と満州への移民

清内路の江戸時代以降の歩みをかいつまんでみると次のようになります。

清内路は天領でしたが石高は無高、山の中で米が取れないので年貢はサワラを榑木(くれき)として納めていました。榑木はサワラの大木を8等分して台形を作り、天竜川に流すのです。それを天竜川の河口で拾い上げて、江戸へ送り屋根材に使う物でした。これを年貢として納めたのですが1700年半ばになり、太いサワラを全て切ってしまったのです。代官所へ「もう材がないので金で納めさせていただきたい」と願い出ました。そこから山を切り拓き焼畑によって煙草の栽培が始まったのです。

 この煙草の栽培による人口の変化を、日本全体と清内路の人口で比較してみると山村の優位性が明らかです。1700年代以降日本の人口は停滞期にあたります。1721年を100とすると1846年の幕末で103%と3%しか人口は伸びていない期間です。ところが清内路では1730年を100とすると1850年には229%と倍以上に人口が伸びています。この現象は、煙草を栽培して刻み煙草に加工・販売する。販売が本格化すると、当時、周辺の木地師が作っていた木櫛も販売に乗せていったことによる、商品経済の浸透とお金の流入です。江戸期の山村が貧しいと考えるのは近代の誤解です。実は江戸時代には山村側に知恵があり豊かな経済圏があったのです。

ところが明治31年に国家は富国強兵のために葉煙草の専売制を導入しました。専売品は煙草と塩、アルコールとアヘンと樟脳です。この頃から清内路でも蚕を飼うようになり養蚕が主になりました。(江戸時代の繁栄をもたらした煙草栽培が復活するのは戦時中に国策の満州移民と引きかえに許可されるまで待たなくてはなりません)。専売制により煙草に変わった養蚕は、当時の産業資本の要請であり、資本経済の一翼を担って山村が世界経済とつながる時代となりました。この事は、江戸時代の煙草が清内路と三河・尾張の間で多くの取引がされたこととは異なっていました。取引先が限定されると取引先との関係も深くなり、三河からは手作り花火、また地芝居や人形浄瑠璃が持ち込まれ、山村の文化として定着してきました。

これらをまとめてみると清内路のとった対応は、米の取れない環境の中で、逆に山間地の土壌が煙草に適していたことから生まれたものです。江戸時代、各藩は「煙草を田や畑に作ってはいけない」というお触れを何度も出していますが、そのくらい煙草の栽培は儲かったのです。明治になって煙草と異なり絹は世界を相手に輸出することになり世界経済につながることでした。恐慌が起きれば日本の山村でも養蚕農家がつぶれてしまうわけです。昭和4年に世界恐慌で繭価が一気に半値になり、不況で困った清内路では、昭和8年には国の経済更生計画を受け入れることとなりました。その計画の中身が村民の満州への移民であり、369人が満州に渡り192人が帰らぬ結果になりました。

戦後は経済成長の中で地域独自の文化が薄くなり、養蚕、煙草、炭焼きなどを続けてきましたが、平成21年に阿智村へ編入合併へとつながったのです。

 

 

振興協議会での将来への地域づくり

合併によって、早速、清内路中学校が村の中心へ統合されました。建てて10年ほどの新校舎が空いてしまったのです。何とか活用できないか。このような既存施設の利活用は振興委員会の席で互いに意見を出しながら会議を重ねてきました。一方で地区の皆さんにも協議いただき全体の意向を組み入れるためにワークショップなども開催しました。振興委員の中では若者から、「ガンジーに学ぼう」という意見も出ました。ガンジーは独立運動の時に、支配国のイギリスの風俗を排除しインドを自覚する。このような考え方を清内路でも組み入れようとするものでした。

この考えは清内路で作られている伝統野菜の栽培に活かされています。日々の生活の中では伝統野菜を食卓で使うことを考える。その次に清内路の地元野菜、さらに阿智村の野菜、周辺市町村の野菜へと食材の輪を広げる思想です。夏場にきゅうりがたくさん取れる時にはさまざまに調理して使う、この多様な仕組みを大切にして野菜を中心にした自給率を上げ、他の野菜も互いに交換すればもっと豊かになる。そのような集落のルールをみんなで作る動きが出てきたのです。これらをまとめて20年後の将来像を「清内路文化の邑」にしようと決まりました。山の中で米は取れなくてもエネルギーや食料の自給率を向上する取り組みが続いています。

一方では地域のお店を使う意識を向上しながら、20年後には少人数でも地域を維持できる人材を育てることが広がっているのです。人口が多くても、地域の未来は数の多さで決まるものではありません。未来を考える仕組みが動いていないと目先の利害に振り回されるだけになります。したがって地域の未来を考える人材がいて、清内路らしい所得の確保の仕方を考え、その世界を確実なものにしないといけない。清内路の未来を担保するものは誰かがもたらしてくれるものではありません。

 

 

地域力による特産づくり

インフラが整備され、企業があって住民の所得が高く、市町村財政が豊かな所は本当に安心して住み続ける所なのでしょうか。今の若い人達はきっと別の選択をすると思っています。今までの常識では考えられない起業に取り組んでいて、その動きの中では独自の論理と視点が高まっています。生きる基本は農業や自営業といった「雇われない生活」の中から自分の力を高めることが分かってきたのです。

彼等の考えは「社会のためになりたい」「環境に良いことをしたい」「安定した収入から遠ざかっていくが、自らの判断で取り組む」。このような生き方の人は車には全く関心がありません。軽トラックで十分です。

この新しい考え方を地域に広げているのが地域おこし協力隊です。清内路では5年前に協力隊として赴任した若者が自立し、二世代目も卒業。今、三世代目の2人が頑張っています。初代の若者は地元の女性と結婚、奥さんが古民家を改装して美容院を営んでいます。そこはいろりを中心として地区の皆さんのたまり場にもなっています。

この地域おこし協力隊のメンバーは毎月一回の定例会議を役場の皆さんと開いています。協力隊に対する村の考え方は「役場に机はありません」「現場で仕事をしてください」が基本です。地域おこし協力隊の本質は活動の成功・失敗で判断するものではなく、活動全体の評価が必要だと思います。その本質は地域に関わって伝統、文化、風土を引きつぐことではないかと思うのです。

清内路を語るには協力隊が関わっている伝統野菜の5品目の活用も忘れることは出来ません。その中でもカボチャが美味しいので僕は大好きです。電子レンジで温めただけでホクホクして生菓子のようになり、今では引き合いが多くて生産が足りない状況です。作業の基本は交配が進んだ種の選別をして、「もう一度原種まで戻そう」これを当面の作業と決めています。同じ伝統野菜の赤根大根を使って「あかねちゃん」という焼酎も作り5年が経ちました、昨年はさらに成熟した原酒から「熟女あかねちゃん」を発売しました。これらは地元の方が楽しみに飲んでいます。一方で、先程紹介した長田屋さんでは一丁310円の寄せ豆腐が好評です。店の前を通るたびに買うのですが、時どき「売り切り御免」に出会い、これが改めて出向くきっかけにもなっています。

地区内のグループによる取組みの多さは特筆できます。常に集まり地域の未来を考えています。外から清内路へ移り住む皆さんのためには、空き家を考える会がマップを作り「ここなら貸してもらえる」という民家を標示しIターンの受け入れに使っています。村の大部分を占める山の活用では薬草の研究と栽培が始まり、清内路薬草研究会というグループが企業と契約栽培に取りくんでいます。今後はさらに花木の活用にも広げたい。山は特産品の宝庫として大切にしています。地区で催しがあるときは「郷土料理を楽しむ会」の出番です。催のたびに季節ごとの伝統料理を肴に一杯飲む。大切なことは、このように沢山のグループがあり、それぞれの視点で地域の将来を考えることだと思っています。

 

 

おわりに

地域全体の方向は観光には少し距離を置き、農作業は親の姿を見て受け継いでいます。困ったときには役場に頼るのではなくて自らの手で汗をかいています。今年の大雪の時にも降った翌朝には、皆が6時に集まって集落の中の雪を全部かいていました。つまり困ったときには自分は何をしなくてはいけないのかを知っているのです。身近なところに食料や燃料が多いと、よほどの大きな災害でも地域はへこまない。それは、誰もが「仲間なしでは生きていけない」という実感をもちながら生きているからだと感じています。

最後に、これからの山村が生きつづけるための基本をお話しして終わりたいと思います。それは地域の伝統、文化、風土を考え続ける営みではないかと感じています。都市のように経済や利便性だけに目を向けていると、足元を見つめる機会が少なくなり、そのことが積み重なるとボディブローのように地域を考える人がいなくなります。それは自分達の地域に感心を持たない村民がどんどん増えていくことにつながってしまうのです。私達は常にその自問自答を繰り返すことが基本ではないかと思うのです。

普段、いかに地域のことを語っていないかと思うたびに、この自問自答こそ地域存続の要だと思うのです。ありがとうございました。