江戸時代土知川と書いてどぢがわと呼ばれていた(遅くとも寛政10年・1798年の古地図では土知川と記載)

その後十文字川と書いてどじがわと呼ばれるようになる。

その由来は今の梅玉旅館前で土知川と城下町内を縦断する浦川(半田用水)とが直角に交差していることからとされている。

脇坂家転封後のことだが、家宝である十文字槍との因果は不明。

現在は浦川が暗渠となったため合流せず立体に交差しているが、交差していたコンクリート跡が見受けられる。

下流に十文字川の水を利用した水車場(板場)があり、米の精白や搾油に使われるなど藩の重要な施設であった。