南方熊楠南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、民俗学者であり同時に植物学、特に「隠花植物」と呼ばれていた菌類・変形菌類・地衣類・蘚苔類・藻類の日本における初期の代表的な研究者である。また、明治政府が推し進めた神社合祀政策に反対し、自然保護活動を行った。

南方熊楠顕彰会発行『世界をかけた博物学者 南方熊楠』(中瀬喜陽・萩原博光・松居竜五)より

 

 

 

 

【動物学】
 熊楠が13才のときに編集した自作の教科書。全部で3冊の草稿が残されており、推敲の跡がわかる。
【鳥山啓】八坂書房
 鳥山啓は、和歌山中学(現桐蔭高校)の恩師で、熊楠に博物を教え、大きな感化を与えた。田辺藩出身で『行進曲軍艦(軍艦マーチ)』の作曲家としても有名。

【少年時代の天狗図】
 和歌山中学時代と思われる『具氏博物学』筆写の裏に見える熊楠自筆の天狗のサイン
幼少年期(慶応3年~明治16年)
 熊楠の父方の家系は、現在の和歌山県日高郡入野で代々庄屋をつとめていたという。父弥兵衛(後に弥右衛門と改名)は、その庄屋の二男に生まれ、13歳の 時、近くの御坊で丁稚奉公をつとめた後、和歌山に出て清水という商家の番頭になり、雑賀屋に見込まれて入り婿となった。老母と一人娘、その娘は前夫との間 にできた女の子を抱えての再婚だった。しかし弥兵衛との間に2人の男子ができた後、義母も妻も死去。女子1人、男子2人を残された弥兵衛は、近所の茶碗屋 で時々見かける女性を後妻に迎えた。
 これが熊楠の母となるすみである。ほどなく兄藤吉、続いて姉くま、そして慶応3年に熊楠が生まれる。熊楠が 物心つく頃には先妻の娘は家を出て行方知れず、異腹の兄2人は早世していた。雑賀屋はもともと豪商だったが、弥兵衛が婿入りした頃には家産が傾き、それを 立て直すのに弥兵衛は必死だった。熊楠4歳の時、弟常楠が生まれる。
 父は鍋屋を営み、鍋釜を包むのに反古紙を山と積んでいた。熊楠は、反古に書 かれた絵や文字を貪り読みつつ成長する。岩井屋という酒屋の息子津村多賀三郎から『和漢三才図会』を借り、数年がかりで105巻を写し取ることもした。読 み、写し、記憶する、これが少年熊楠の日常だった。いまに残る少年時代の写本には『本草網目』、『大和本草』、『全躰新論図』、それにある日の新聞をまる ごと写し取った『和歌山新聞紙摘』がある。筆写魔ともいうおそるべきエネルギーの感じられる数々である。
 12歳で和歌山中学に入学してからは、 熊楠は鳥山啓の薫陶を受けて、博物学の才能を伸ばしていった。特に、13歳の時に書き上げた『動物学』は「英国諸書を参校し漢書倭書を比て」、つまり英語 の本を参考にして漢文や日本文の本と見比べながら作った自作の教科書である。序文には、「宇宙間物体森羅万象にして・・・実に涯限あらざるなり」とあり、 博物学に志した少年熊楠の気概を示している。
 熊楠の生いたちで、伝説的に語られるのは学校の授業に出ず、植物採集に山にばかり入っていたので 「てんぎゃん(天狗さん)」と呼ばれた、ということである。しかし、中学時代(明治14年)の日記を見るかぎり、そう欠席が多いとは思えない。これはやは り熊楠自身が語るように「日本人に例少きほど鼻高かりしゆえ」の呼び名らしい。熊楠はこの天狗のニックネームを好んだらしく、写本の表紙によく天狗の絵を 描き、また文章にも「天狗言」と署名するなどしている。

 

 

 

 

 

 

 

東京修学時代(明治16年~明治19年)    
 明治16年、上京した熊楠は、神田の共立学校(現在の開成高校)に入学した。そこで英語を教えていた高橋是清は南方をナンポウと呼んで生徒を笑わせ、ランボウ君とも言うのには閉口した、と後年の回想にある。
 1年後、大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入学してからは、「授業など心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書物を読みたり」という生活だった。和歌山で友人宅の本を興にまかせて借り歩いたのとは違い、ここには天下の書が手に届くところにあり、本好きの熊楠は胸を躍らせた。当時、図書館などで筆写したノートは、学校の課外に書きつける意味から「課余随筆」と名付けられ、この名での筆写は後の渡米後も続く。
  一方、当時日本に進化論をもたらしたアメリカの生物学者E・S・モースの講義録『動物進化論』を購入している。モースの発見した大森貝塚に出かけて獣骨や土器を拾い、またモースの調査拠点であった江ノ島で貝類や甲殻類を集めたことが日記や残された資料からわかる。また、朝鮮で起きた甲午事変における日本の関与に関心を持って報道を追っていたことや、世界を舞台にした政治小説である東海散士『佳人之奇遇』に心を躍らせるという面もあった。
  熊楠の下宿は神田錦町にあり、和歌山出身の学生がたむろしていたようで、早朝から湯島の湯屋へいって珍芸を披露したり、万世橋近くの白梅亭という寄席に通って興じたりしたようだ。予備門同級生の秋山真之や正岡子規なども寄席で唄われる奥州仙台節を夢中になって稽古していたという。熊楠も「よしこの節」を自分より上手に唄うものはいないと自負している。
  こうして正規の授業に身を入れなかったむくいからか、熊楠は中間試験で落第が決まり、「疾を脳漿に感じて」予備門を明治19年に退学、故郷和歌山に帰った。

【東京大学予備門成績表/明治18年3月】
 18ページ右から四番目に夏目漱石(塩原金之助)、19ページ中程に南方熊楠、山田美妙(武太郎)、左から三番目の不合格者の中に正岡子規(常規)の名が見える。熊楠はの年12月の試験で不合格となった。

 

 

【渡米にあたって友人に送った写真】【ウィリアム・W・カルキンス】
 文通によって熊楠の学問意欲をはげまし、自らの菌類・地衣類標本を研究用に贈った。カルキンスの助言によって熊楠は、フロリダと中米へ植物採集に出かけ、ついにキューバで地衣の新種を発見する。鑑定のための仲介をしたカルキンスは、「世界的発見」と称賛した。
在米時代(明治20年~明治25年)   
 大学予備門を退学した熊楠は、進化論など西洋の最新の科学思想を学ぶために渡米を考えるようになっていった。かねて胸に秘めていた北米のカーチスの菌類コレクション6,000点を上回る一大収集をなしとげようという意図もあった。和歌山で開かれた送別会の席上、時代はいまや欧米と日本との競争に入った。欧米の実情を知ることが急務だと、一場の演説をぶっている。明治19年12月、熊楠20歳の門出である。
  和歌山を発つ時、「父が涙出るをこらえる体、母が覚えず声を放ちしさま兄、姉、妹と弟がいん然黙りうつむいた様子」は後年に至っても熊楠の脳裏に焼きついている。父母妹とはこれが今生の別れとなった。
  後に不和となる弟常楠からの書簡には、学資金の増額を要求する熊楠と、それを拒む父と長兄との問をとりなして苦心するようすがうかがわれ、また、長兄とそりの合わない父は、熊楠か常楠と共同して酒造業を始めたいと希望していたが、常楠が熊楠の学業の成就を願って、自ら父を助け、熊楠への送金を引き受ける役に回ったことも読みとれる。
  アメリカに着いた熊楠はまず、サンフランシスコでパシフィック・ビジネス・カレッジという商業学校に入学している。半年間この商業学校に通った後、ミシガン州に移動し、今度はランシングにある州立農学校に入学。しかし、同じミシガン州の学問都市アナーバーに惹かれ、アメリカ人学生との衝突もあって州立農学校を退学し、以後は読書と植物採集を中心にアナーバーでの生活を続けた。
  全米最大規模のミシガン大学を有するアナーバーは、当時から古書店が多く建ち並び、また博物館などの文化施設も充実したところであった。熊楠はこの環境の中で、西洋思想と近代科学の方法論を独学で学んでいった。また、5月になると一斉に草花が咲き誇るヒューロン川周辺で、さまざまな種類の植物採集をおこなっている。
  それとともに、熊楠は他の多くの日本人留学生仲間たちと酒を酌み交わし、親交を深めてもいた。『珍事評論』はこの頃の熊楠が留学生仲間に回覧した手書きの戯文である。しかし、飲酒をめぐる事件から日本人留学生のグループ内に対立が起こり、熊楠は植物採集のために単身、フロリダ、キューバに赴くことになる。
  熊楠がこうした南部の地を訪れたのは、シカゴの弁護士ウィリアム・カルキンスとの文通の中で、これらの地が隠花植物の宝庫であることを教えられたからでもあった。実際、熊楠はフロリダでは中国人の食料品店主江聖聡の家に下宿し、またキューバでは曲馬団の人たちと交流しながら、隠花植物の採集を続けた。その結果、ギアレクタ・クバーナという地衣類を発見し、これはカルキンスの手からオランダの植物学者ニランデルに送られて新種と認められることになった。
  北米、フロリダ、キューバという放浪を経験した熊楠が、次に目指したのは大英帝国の首都ロンドンであった。フロリダに戻った熊楠は、1892年にニューヨークを経由して大西洋を渡ることになる。
 文通によって熊楠の学問意欲をはげまし、自らの菌類・地衣類標本を研究用に贈った。カルキンスの助言によって熊楠は、フロリダと中米へ植物採集に出かけ、ついにキューバで地衣の新種を発見する。鑑定のための仲介をしたカルキンスは、「世界的発見」と称賛した。

 

【NATURE】
 1869年、天文学者ノーマン・ロッキャーによって創刊された総合学術雑誌。
【ロンドン抜書】
 1895年から1898年にかけて、熊楠は大英博物館に日参して、朝から晩まで筆写を続けた。「ロンドン抜書」と呼ばれるこの52冊のノートは英・仏・伊・独語で書かれた民俗学・博物学・旅行記の筆写からなっており、後に熊楠の学問的な基礎となった。総計1万ページ以上のノートにびっしり書き込まれた細かい文字は、熊楠の集中力の激しさを物語っている。
【ロンドン戯画】【ロンドン戯画】
 帰国後の明治36年、那智山麓大阪屋から田辺の素封家多屋寿平次の次女たかにあてたもの。「正月祝ひに絵ハガキ一つ差上候。委細は勝っ長(兄勝四郎)より御聞取下されたく候」として2枚つづきの葉書を送った。シルクハットをかぶっているのが熊楠。眼帯は栗原金太郎、それに骨董店主加藤章造。
在英時代(明治25年~明治33年)    
 たえず各地を転々とする熊楠への書信は、アメリカでは日本領事館がそのあて先に使われ、イギリスでは、横浜正金銀行倫敦支店が利用されることが多かった。
  父は1892年8月8日に死去したが、熊楠がその報を受け取ったのはロンドン上陸直後の9月28日である。兄や弟の前では、熊楠に対して厳しい注文をつける父であったが、陰に回って庇護を惜しまなかった父だけに、その死の知らせは熊楠を暗澹とさせた。生前何もむくいることのなかった父のために、このロンドンで精いっぱい学問を吸収したい、一人心にそう誓うのだった。在英7年余、その大半は大英博物館での読書と筆写に明けくれ、当時のノート「ロンドン抜書」52冊、1万800ページを成したことは父へのそうした思いがこめられているのであろう。ロンドンに着いて5年目には母の訃報も受け取っている。
  そのような中で、熊楠は大英博物館を拠点に水を得た魚のように学問活動の場を広げていった。1893年に大英博物館副館長格であったフランクスに見出された熊楠は、その助手のリードに日本語や中国語に関する助言を依頼され、東洋美術部に出入りするようになった。1895年には博物館中央にある円形ドーム型大閲覧室で「ロンドン抜書」の作成を開始、また東洋書籍部のダグラスとも親交を持った。
  これと並行するように、熊楠は処女作の「東洋の星座(The Constellations of the Far East.)」を皮切りに、当時科学雑誌としての権威を高めつつあった『ネイチャー』誌にたびたび投稿し、東洋にも固有の科学思想があったことを紹介し続けた。熊楠の『ネイチャー』掲載論文は生涯で51本に上るが、これは同誌の歴代の投稿者の中でも単著としては最高記録であると言われている。また、ロンドン時代の後期からは民俗学の情報交換雑誌である『ノーツ・アンド・クエリーズ』にも寄稿を始め、「さまよえるユダヤ人」や「神跡考」といった、大英博物館での筆写によって研鑽を積んだ比較民俗学の成果を発表するようになっていった。
  このロンドン時代には、熊楠はさまざまな交友関係にも恵まれた。大英博物館のダグラスの下で、ある日紹介された中国人青年の孫文と意気投合したが、この孫文こそは後に辛亥革命によって清国を倒して臨時大統領となり、近代中国の基礎を作る人物である。日本文学研究者のディキンズとは、時に論争をしながらも長い交流関係を持ち、『方丈記』を共同訳したり、『古事記』などの翻訳の助言を与えたりした。ロンドン時代の初期に日本人真言僧の土宜法龍と出会ったことも、その後の熊楠の人生に大きな影響を与えた。交流は法龍がパリに移った後も文通により続き、仏教を中心とするさまざまな意見を交換する。
  しかし、熊楠にとって、物価の高いロンドンで学問一筋の生活を続けることは容易ではなかった。実家からの仕送りに頼っていた熊楠であるが、当時、家業を継いだ常楠も米価の高騰、株価の大暴落という事態にしばしば遭遇して金策に苦慮していた。当然、熊楠への送金も滞りがちになる。骨董商と手を組んで、怪しげな浮世絵に面白おかしく賛をして売り歩くこともしなければならない熊楠であった。
  送金の滞ったことに対していらだっていた熊楠は、1897年にささいなことから館内で他の利用者を殴打するという事件を起こし、大英博物館での自由が束縛されることになった。その後、大英博物館を去った熊楠は、自然史博物館やビクトリア・アンド・アルバート博物館を拠点とした学問活動を続けるが、1900年9月、ついにロンドンでの生活をあきらめて帰国の途につくことになった。33歳の時のことであった。

【孫文との記念写真】
 中国革命の父とよばれる孫文との交友は短い期間であったが、共に語る濃密な時間をもっている。二人が出会った1897(明治30)年の熊楠の日記には、しばしば孫文の名が出、6月27日には、孫文が「海外逢知音」の言葉を認めている。 この写真は、熊楠が帰国したことを知った孫文が、和歌山の実家を訪ねてきた際(1901年2月15日)に撮られた写真である。前列左から、弟常楠、孫文、常楠長男常太郎、弟楠次郎。後列左から熊楠、通訳の温炳臣。

 

【大阪屋跡】
 熊楠は那智山麓の大阪屋に宿をとり、那智山、妙法山へと足を伸ばした。跡地には看板が立っている。
【陰陽の滝】帰国から那智へ(明治33年~大正2年)   
 生活費の困窮から、ロンドンでの独習もこれまでと見切りをつけた熊楠は、おびただしい植物標本を木箱につめて帰国した。くたびれた洋服に、懐中無一文で船を下りた兄に、常楠は、これが在外13年余の誇り高い帰朝者の姿なのかと失望をかくさなかった。帰国後の兄をどう処遇するか、常楠には頭の痛い問題であった。
  その頃、常楠が営む南方酒造は、熊野は南紀勝浦に支店を開き酒の直販をしていた。熊楠にその支店のお目付け役として行ってもらえば、妻の手前、生活費支給の名目も立ち、兄もまた温暖多雨の熊野の植物調査に都合もよかろう。幾晩かの話し合いの末、熊楠は勝浦に赴くことになった。孫文と和歌山で旧交を温めた明治34年のことである。
  熊野入りした熊楠は、まず勝浦港の近くで生活し、ほどなく那智の滝近くにある大阪屋に移る。明治35年に歯の治療で和歌山市に帰り、田辺・白浜で半年間過ごした以外は、明治37年10月まで大阪屋での生活を続けた。この間、藻類、キノコを手始めに、さまざまな隠花植物、さらには高等植物や昆虫、小動物など、熊野の生命の世界の採集に明け暮れる日々を送ることになったのであった。
  その一方で熊楠は、長文の英文論文の執筆を続け、「日本の記録に見る食人の形跡」、「燕石考」を立て続けに完成させた。また、土宜法龍宛の書簡の中で、「小生の曼陀羅」と書く世界観のモデルを模索していたが、これは後に南方マンダラと呼ばれて熊楠の思想の中核的な部分と位置づけられるようになった。熊楠はこの中で、この世の森羅万象は互いに関連し合いながら存在していること、丹念に物事を観察していけばそれらの現象をすべて理解することが可能であることなどを説く。
  那智時代の熊楠は、ロンドンで学問生活を続けられなかったことや、故郷和歌山に自分の居場所がないと感じたことを背景に、みずからの研究に没頭する毎日を送った。孤独な生活の中で精神が研ぎ澄まされ、死を意識することも多かったこの時期の熊楠の文章には、他の時期にはないような高い緊張感が漂っている。また、原生林も残る熊野の森林の中で長期間生活したことは、エコロジーという言葉で生態系の全体像をとらえようとする後年の思想につながっていくことになる。

【南方マンダラ】
 明治36年7月18日付の土宜法龍宛書簡に記された図。熊楠はこの図について、「この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、いかなることをも見出し、いかなることをもなしうるようになっておる」と解説している。

 

【磯間浦安神社】


(八)湊村大字磯間 夷神社
湊村大字磯間浦(歌の名所なり)
夷神社(遠望の(イ)は鉛山岬等、(ロ)は神島の密林)
 小祠なれど絶景の地なり、総て漁民は日夜波涛の上を板一枚で奮戦する者故、吉凶とも夷神社に報賽して漁利を祈るなり。然るに本県はこれすら悉く滅却、海浜の夷神社残存せる此浜に僅かに四社しかなく、他には悉く遠方の市街、また陸上の村落の神社に併さる。故に漁民等帰嚮する所を失ひ、奸譎の徒これに乗じ妖狐、魑魅、死霊等を拝する淫祠を立て大はやり、風俗を乱すこと甚し。
 昨年夏、日高郡御坊町にて漁民等、町民・村民と大騒闘せしも、合祀して夷子神社を潰されし遺恨なり。
神島を田辺近き文里の浜より遠望す
此島に種々珍奇の生物多し。先月伐採の所を熊楠抗議し、村吏をして買ひ戻さしめたり。(南方二書九、一〇頁及び一五頁)

猿神社跡】
 高山寺の麓にあり、熊楠が新種の変形菌(粘菌)アオウツボホコリを発見した場所。稲荷神社に合祀された。この猿神社の社叢伐採が熊楠の神社合祀反対運動のきっかけとなる。
神社合祀反対運動    
 明治37年秋、那智での隠花植物採集を終了した熊楠は、本宮から熊野古道を経て田辺にたどり着き、定住することになる。田辺に家を借りていた熊楠は、毎日のように近郊の山野を歩き、植物調査に余念がなかった。4年ほどの調査で50種あまりの粘菌を見出し、菌、藻類、地衣類にしても田辺付近が発見の多い地であると喜んだ。これら新種、珍品の現れる場所は、糸田にある猿神社の巨大なタブノキ、神楽神社の溜池、龍神山の境内といったような、うっそうと茂った社寺林の中であった。
  明治39年には、親友の喜多幅武三郎の勧めで結婚もし、長男も生まれた。ようやくに得た安らぎかと思われた矢先、降ってわいた受難は、時の政府が推進した神社合祀政策だった。1町村1社を標準とし、整理統合された数多くの神社跡は、その神社林が払い下げられ伐採されていく。熊楠の主たる研究対象は、この神社の森に保護された微小な生物であり、神社を単位とした共同体の風習や伝承である。それが一朝にして破壊の危機に立たされた。
  猿神社のタブノキも伐られ、その木の窪みから発見した、美しい緑の光を放つ新種の粘菌は、もはや見ることはできない。森がはぐくんできた数千万年の生物が、合祀政策によって一朝に消え失せる。産土神を遠くの神社に合祀され、参詣の不便さをなげく村民の声を聞くにつけ、また、合祀後の払い下げを見込んで巨樹の多い神社を合祀の対象に選ぶ神官や郡長らの所行を見るにつけ、熊楠は怒りを爆発させた。それまではかかわりを持たなかった地方の新聞に、連日のように神社合併の不条理をあばく投書を続け、一方、代議士中村啓次郎を通して衆議院での質問、柳田国男らに中央での働きかけを期待する書簡を書きつづった。
  熊楠は、一切の研究を放棄して反対運動にのめりこんだ。合祀推進の官吏が来ていると知って、その会場に押しかけ家宅侵入の容疑で拘留されたこともある。また、新聞投稿の記事が風俗壊乱であるとされ、罰金を課せられるもした。「仏説に、樹を植え、木を保存するを一つの功徳とす。小生は幼少より学仏の徒なれば、愚者の一徳として発起、且、随喜し従事する所ろなり」―熊楠の所信である。妻の松枝は神官の娘で、もっともつらい立場にあった。泣いていさめたことが、反対の鉾先をにぶらせたとして熊楠の怒りを買い「妻を斬るとて大騒ぎせし」という事態もあった。明治42、3年頃は、熊楠にとって阿修羅の時代だった。大正2年、父祖の産土神、大山神社(現日高川町)も合祀の憂き目にあった。

【鬼橋岩】 
 神楽神社の裏。かつては鬼橋岩とよばれる、岩山の一部が波の浸食によってくり抜かれてできた岩の橋があったが、崩壊の危険のため昭和58年に撤去された。
【写真裏書】
(十) (十七)も仝じ
  西牟婁郡湊村神子の浜 
  神楽神社    (南方二書三九頁)
 この鬼橋巌といふ橋如き巌のあちらに神楽神社あり。此辺で太古に人牲を供え鬼神を祀れりといふ。数年前、古塚よりインベ多く掘出し、跡を全滅せし人あり、「二書」三九頁にいふ如し。此辺絶景の地なり。巌より此方にまた日吉神社あり。神林蓊鬱として珍植物多し。此二社は神林共に小生抗議し今に残る。然れども郡役所よりは、ひまさえあらば、滅却伐木せしめんとし、神林追ひ追ひ減じ枯れ行く。五ヶ月ばかり前に堀といふ郡書記、厳しく村民に合祀を逼りしが、神職合祀の為に村民の機嫌を損ぜん事をおそれ辞職を申し出づ。その堀といふ奴は三ヶ月ばかり前に大熱病を発し、別嬪の妻と数人の子を遺し地獄え旅立り。「南方二書」二〇に見えた通り、此もの元は巡査にて、合祀せずば入牢させるとて人民をおどし、多く神社潰せしなり。 


 

【近露王子跡】
神社合祀は通常由緒のある大きな神社に小社が合祀されるが、近野村では由緒のある王子社が小社に合祀された。
【継桜王子跡】
継桜王子の杉は「野中の一方杉」と呼ばれ、熊野古道中辺路のランドマーク的存在。
継桜王子周辺には、神社合祀の際に伐られたと思われる古木の切り株が今も残る。
 

 

【南方閑話】
 熊楠が生前に発行した『南方閑話』、『南方随筆』、『続南方随筆』のうち顕彰館に残るのは『南方閑話』だけである。後に再発行するためか、書込みがされている。『南方随筆』、『続南方随筆』も同様に書込みがされているが、現在どこにあるのか分かっていない。

南方植物研究所   
 熊楠がもっとも保存に望みを託した大山神社が合祀されたことにより、合祀反対にかけた熱情も冷め、再び研究生活に戻る。米国農務省植物産業局長のスウィングルが田辺を訪れ再度米国招聘を伝えるが、熊楠は固辞した。この頃、農学博士の田中長三郎は米国の植物産業局に対する日本植物研究所の構想を打ち出し、南方熊楠を初代所長にしたい、と提案した。
  曲折を経て誕生をみたのが南方植物研究所であった。熊楠の自邸約400坪がその地である。実質的な発起人は田中のほか弟常楠、田辺の毛利清雅(柴庵)、東京の上松蓊で、田中は趣意書の成った時点で渡米、基金の募集は毛利、上松とそれに熊楠の肩にかかってしまった。帰国後、ほとんど県外に出ることのなかった熊楠が、毛利を伴って上京したのは大正11年のことである。上松ら在京の友人・知人が応援した募金であっが、目標の半分にも満たず、不本意な結果に終わった。
  予定の額に満たなければ研究所を解散して、拠出された金額を一々返すしかない。思いつめた熊楠は、高額の出資を約束しながら実行しない弟常楠に出資を迫った。常楠は、仲介者が勝手に書き込んだもので自分の預り知らない額だと突っぱね、それまで毎月送金していた生活費の援助も打ち切り、ここに抜きさしならない兄弟の溝が生まれた。
  折も折、長男熊弥が受験に行った先の高知で発病、治癒の望みのない病であることがわかる。熊楠は、熊弥の病気は受験勉強の疲労と流感の高熱ということよりも、金銭をめぐる家庭内のもめごとの不安が直接の原因であるとし、兄弟の確執は深まった。
  一家の生活費に加えて熊弥の治療費の捻出まではとても手が回らない。熊楠は、それまで書きためた随筆原稿の版権を売ることで一時をしのごうとした。『南方閑話』、『南方随筆』、『続南方随筆』、同年に3冊の出版が相次いだ背景である。

【南方植物研究所】 
 田中長三郎の起草による趣意書。発起人の筆頭に原敬の名が出る。5人が加えられているのは熊楠の筆跡。払込先も変更されている。

 

【腹稿】
 熊楠が論考の構想を一紙に展開したもの
【田辺抜書】
 田辺定住後の明治40年2月から筆写を始め、昭和9年まで61冊を成した
民俗学    
 かつてロンドンで民俗学・人類学における名だたる学者たちと「鶤鳳の間に起居した」誇りは、帰国後、熊野という辺境にあっても失われず「未見未聞のことを新たに見出し、考え出すには」田舎ぐらしも決して捨てたものではないと、熊楠は植物調査のかたわら、見聞した熊野の伝承や風俗を記録し、血肉化していった。
  田辺に来住した当初(明治37年から大正5年頃まで)熊楠はよく銭湯へ通った。当時の日記には「夜10時過ぎ油岩を訪う。12時、今福湯に入り帰る」と記すことが多いが、油岩は、生花の師匠広畠岩吉の家号で、熊楠も「歩く百科事典」とほめるほど諸芸に通じ、豊富な話題をもっていた。話し好きなところから油岩の家は老人連の会所のようにもなっていたので熊楠は銭湯の行き帰りにはかならず顔を出していた。今福湯は、油岩から2、3軒おいたところで、夜が更けると、遅くまで仕事をした職人たちがどやどやと繰り込んでくる。熊楠は、洗い場に腰を据えて、入れ替わりやってくる職人たちをつかまえて話し込む。面白い話にぶっかると、次の晩も、もう一度聞き直して齟齬がないか確かめる。こうしてどんどん聞き書きノートをふくらませていくのだった。
  こうした熊楠に1通の書簡が届けられた。柳田国男からで「平日深く欽仰の情を懐きおり候ところ……突然ながら一書拝呈仕り候」と辞を低くして「山男」に関する熊野の伝承の提供を請うものだった。『東京人類学会雑誌』(明治44年2月刊)に、熊楠が投じた「山神オコゼ魚を好むということ」が機縁となっての文通で、以後頻繁な書簡の往復を重ねる。そのうち熊楠から「欧米各国みなフォークロア・ソサエティーあり、わが国にも設立ありたきものなり」と呼びかけ、柳田がそれに応えて、草創期の日本民俗学は大きな一歩を踏み出すのであった。
  当時、熊楠の学問に注目した人に高木敏雄、宮武外骨、三田村鳶魚、本山桂川、三村竹清、折口信夫、岡茂雄らがおり、熊楠はその時々に原稿を寄せて、執筆誌は40数種におよんでいる。

 

【熊楠が発見した親属新種の粘菌ミナカテラ・ロングフィラ】
 1916(大正5)年8月に自宅の柿の木の幹上に見つけた珍しい粘菌は、グリエルマ・リスターによりミナカテラ・ロンギフィラと名付けられた。
 意味は「南方の長い糸」で、ミナカテラが属名、ロンギフィラが種名である。なお、この図はグリエルマが描いたものである。

【菌類図譜】        
詳細な英文説明のついた熊楠自筆の彩色図を菌類図譜という。
国立科学博物館植物研究部蔵
植物学    
 植物学者・南方熊楠について両極端の評価がある。「植物学の大家である」という評価と「偉大な文学者であっても偉大な植物学者ではない」というものである。
  熊楠が主として研究した植物は、シダ、コケ、藻類、地衣類、キノコなどの花を咲かせない植物、すなわち隠花植物である。在米時代に菌類学者カルキンスから隠花植物研究の手ほどきを受け、植物の宝庫であるフロリダ、キューバヘ採集に出かけたことが若い熊楠に強い影響を与えたようだ。
  隠花植物の仲間に、奇妙な生物・粘菌がいる。「変形菌」とも呼ばれ、「菌」とつくにもかかわらずアメーバのような生活をする。成熟すると、キノコのように胞子を作って休眠する。胞子は、発芽して再びアメーバになる。系統上、生物界のどこに位置するか定説がない。現在のところ菌類に所属されたり、原生動物として扱われたりしている。熊楠は、この粘菌に強く引かれて研究した。アーサーとグリエルマのリスター父娘との共同研究によって、熊楠は日本産粘菌の種数を、この方面の研究の先進国であるイギリスやアメリカに次ぐ数にまで高め、日本の粘菌研究史に輝かしい足跡を残した。
  しかし、熊楠は、粘菌だけではなく、淡水産の藻や「真菌類」と呼ばれるキノコにも大きな力を注いでいる。丹念に作られた4,000枚以上の藻の顕微鏡用プレパラート標本と詳細な英文説明の付いた3,000種を超えるキノコの彩色図が残されている。
  ところが不思議なことに熊楠は、粘菌の目録以外にはほとんどまったく隠花植物研究の成果を発表していない。発表していなければ評価の仕方がないのである。噂だけが流れたために評価が極端に分かれてしまったのだろう。南方熊楠の植物学者としての正しい評価は、彼の残した莫大な数の標本が整理されて研究されるまで待たなければならない。

 

 

 

 

 

【歌碑建立記念写真】
 この行幸記念碑には熊楠自詠自筆の「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましし森ぞ」の歌が刻まれている。昭和5年6月1日撮影

【白浜・不綱知桟橋に上陸される昭和天皇】
 昭和天皇の南紀行幸は、当初5月下旬が予定され、熊楠の進講の日は26日と内定があった。ところが5月に入って大阪府下で悪疫が発生。行幸は中止となるという噂さえでた。結局6月1日から3日間と延期になるのだが、こうした矢先、旧知の加藤寛治から熊楠のもとへ1通の書状が届いた。それには「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらるる御目的は、主として神島および熊楠にある、云々」というものだった。
 5月25日、県知事から正式に進講の通知を受けた熊楠は、数日を不眠不休で進献標品の整理にあたり、粘菌110種ほか、ヤドカリの珍種、海グモなどを用意した。ほかに、進講の参考品はウガ、地衣、菌類標本帖、菌類などであった。

進講・進献    
 南方熊楠が昭和天皇(当時摂政宮)へ初めて粘菌標本を進献したのは大正15年11月10日のことで、小畔四郎ら門弟の収集品を主に、熊楠が37属90点を選び、表啓文を添えて進献した。粘菌にご関心の深い摂政宮のご内意があってのことで、その後、昭和3年にも標本献上の希望が宮内省生物学研究所主任服部広太郎から小畔に出されたが、これは実現しなかった。
  昭和天皇の南紀行幸が話題になったのは昭和4年3月5日、服部広太郎が侍従とお忍びで熊楠邸を訪れ、神島に渡ったことに始まる。その後、4月25日、服部から「田辺湾神島にてご説明申し上ぐべし。諾否を返電せよ」と電報が入り、折返し承諾の旨を返電した。いま白浜の南方熊楠記念館に当時の資料が展示されているが、その一つに進講決定の知事からの通達がある。

  昭和4年5月25日  和歌山県知事 野手耐
  来る6月1日、海産動植物ご採集の上御帰艦迄に、貴下御秘蔵の珍種植物標本数種御携帯の上、別仕立の船を以て云々……。

  服部の電報から1ヵ月後、ご進講1週間前の通知となる。なぜこうなったのか。これはこの時の行幸の目的と大きくかかわる。県はごく普通の奉迎態勢をとり、進講者に南方熊楠を選ぶことは念頭になかった。ところが宮内省では、昭和天皇が粘菌にすぐれてご関心が深く、田辺在住の研究家南方熊楠の名は早くからご承知である。ぜひ日程の中に神島での粘菌採集と熊楠によるご進講を入れたい、とあらかじめ3月から準備を進めていた、そういう食い違いからであろう。
  6月1日。熊楠はこの日、フロックコートを着て神島に向かい、その後、お召艦で秘蔵の収集品をご覧に入れた。昭和天皇は、タバコの空き箱や古新聞にくるまれたそれらの標本を楽しまれ、進講時間を延長させて熊楠をねぎらわれたという。なお、その時、献上の粘菌110点を大きなキャラメルのボール箱11個につめて持参したことは、いまでも語り草になっている。
  昭和7年にも熊楠は、門弟と合わせて30点の粘菌標本を献上、小畔四郎が単独で献上した分と合わせて4度の進献を果たした。
 

【喜多幅武三郎】
 田辺在住の医師。和歌山中学、京都府立医学校を経て東京帝国大学医科大学を卒業、田辺で開業する。田辺中学校の校医を長年勤めるとともに、産婆看護婦養成所を自宅に開設、娘の行く末を案じた熊楠は喜多幅に依頼して、昭和11年3月末に長女文枝をこの養成所に入学させた。写真は昭和12年4月に撮影された養成所卒業記念の写真で、前列の男性が喜多幅、後列右から二人目が文枝である。文枝は看護婦試験に合格、産婆(助産婦)資格も得た。喜多幅は常に熊楠の健康に注意を払い、熊楠の方は健康のことだけではなく、何事においても喜多幅のいうことを聞いたという。文枝によると、時折喧嘩したが謝りに行くのはいつも熊楠の方であったという。
 妻松枝は喜多幅にいつも冗談交じりに「もし先生の方が早く亡くなられたら、すぐに迎えに来てくださいよ。こんな気むずかしい人残されたらかなわんから」と言っていたという。昭和16年3月10日に喜多幅は亡くなるが、その8ヶ月後の12月29日に熊楠は後を追うように亡くなった。喜多幅は高山寺に眠っているが、小道を隔てた北側に熊楠の墓がある。 

 熊楠を助けた人々   
 熊楠を物心両面から援助した人としては、横浜の平沼大三郎、神戸の小畔四郎、東京の上松蓊、田辺では毛利清雅、喜多幅武三郎らが挙げられる。いずれも熊楠が晩年にかけてもっとも頼みとした人びとである。平沼は母子ともども熊楠一家の生活のことに意を用い、小畔は調査の費用(たとえば第1回高野山調査行など)をかなりの部分で負担し、上松は熊楠の研究に必要な書籍、筆記具、顕微鏡などあらゆる要請を一手に引き受け、買い整えるといった協力ぶりである。
  これに対して毛利は「牟婁新報」社主、後には「紀伊毎日新聞」社長といった言論人であり、県会議員としても発言力がある。熊楠の神社合祀反対運動に惜しみなく紙面を提供し、自らも同調して行動した。熊楠の逸話を彩る県議選選挙事務長就任の話も、友人の毛利の劣勢をはね返すには何か奇手を編み出さなければと、川島友吉(草堂)らの献策で急に決まったことである。ためらう熊楠に、せめて2日か3日でもと川島は説き、熊楠も、いままでの友情と神島保存の今後を思うと、今度の県議選には毛利をぜひとも勝たせたい、そういう思惑も交錯しての承諾だった。推薦演説に熊楠が立つ、この噂はたちまち広がり、演説会場は近郊の人を含めて超満員、推薦の辞を代読する人のそばで熊楠はただ椅子に腰を掛けているだけだったという。作戦は図にあたって毛利は辛勝。神島が国の天然記念物に指定されるよう、熊楠を助けて奔走した。
  喜多幅は和歌山中学での同級生であるが、入学の2日前に出会った友として熊楠は他の同級生と区別して特に親しくしている。田辺に来住したのもその縁であり、熊楠一家の主治医として終生の交わりだった。喜多幅没後、暗夜の灯火を失いめっきり心弱くなった、と熊楠はいう。
  昭和16年12月29日に、熊楠は74歳の生涯を閉じた。亡くなる前日、床に着く際に、「天井に紫の花が一面に咲き実に気分が良い。頼むから今日は決して医師を呼ばないでおくれ。医師が来れば天井の花が消えてしまうから」と言い残したという。それから夜中に「野口、野口、文枝、文枝」と大声で叫んだ。野口利太郎は闘病生活を送る熊弥の面倒を見た人物で、2人の子供に対する思いを託した言葉であった。この言葉を聞き取った長女文枝は、亡くなるまで自分の名前を「熊弥」に代えて語り継いだ。
  熊楠の没後、妻の松枝、文枝、娘婿にあたる岡本清造らの手により、書庫に残された膨大な蔵書や資料は大切に保存された。和歌山、東京、アメリカ、キューバ、ロンドン、那智、そして田辺にいたる熊楠の無限の知的好奇心の跡を示す数万点の資料は、ほとんど当時のままで、未来の世代に継承されることになったのである。
 

没後の顕彰   
 戦後間もなく、大蔵大臣で民俗学者でもあった渋沢敬三は昭和天皇から熊楠の逸話めいたものを聞かされた。昭和4年の田辺での進講の時の話で「南方には面白いことがあったよ。長門(注、御召艦)に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいじゃないか」というものだった。
  その頃、渋沢はミナカタ・ソサエティを結成して顕彰事業に着手していた。「ミナカタ・クマグス展」の開催と著作集の刊行であった。展覧会は昭和26年東京・大阪をはじめ全国の4ヵ所で開かれ、同時に『南方熊楠全集』(全12巻)も翌年にかけて出版された。
  昭和37年5月、昭和天皇は南紀に行幸され、宿舎から雨に煙る神島を目のあたりにされた。33年前、熊楠の案内で神島に粘菌を探られた日も雨であった。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」―翌38年1月1日の新聞に発表されたこのお歌が、その後の熊楠顕彰に大きなはずみとなり、昭和40年には白浜町に南方熊楠記念館が開館。熊楠の超人的な足どりが人びとの前にようやく明らかになった。
  田辺市では没後50年にあたる平成3年に向かって始まった南方ブームから、熊楠顕彰の気運が高まり、南方熊楠邸保存顕彰会が組織された。また、熊楠の長女にあたる南方文枝の依頼から始まった邸書庫の蔵書・資料類の調査は顕彰会が中心となり、研究者により引き続き進められることとなった。平成12年に文枝が亡くなった後、その遺志によって旧邸と蔵書・資料はすべて田辺市に遺贈され、平成18年には旧邸隣地に南方熊楠顕彰館がオープンした。
  この間、熊楠の基礎資料の整備が進み、『南方熊楠邸蔵書目録』、『南方熊楠邸資料目録』が完成、またさまざまなかたちで資料のデジタル化・データベース化が進められてきた。今後は未刊行の部分の多い日記や書簡など重要資料の翻刻が、顕彰館を中心におこなわれようとしている。基本資料が整備されるにつれ、熊楠をより多角的に分析するような研究もさかんに行われるようになった。南方熊楠の学問は、21世紀において大きな可能性をもつ人類の知的財産になろうとしているのである。

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◎南方熊楠略年譜

1867(慶応3)年 
   4月15日(新歴の5月18日)、和歌山城下橋丁に、父南方弥兵衛、母すみの次男として出生、熊楠の名は海南・藤白神 社の楠神に詣でて授かった。

1873(明治6)年
 3月、湊紺屋町に開設された雄小学校に入学。

1875(明治8)年
 『和漢三才図会』(105巻)を借り筆写に励む。同時にこの前後『本草網目』、『諸国名所図会』、『大和本草』なども筆写する。

1876(明治9)年 
 速成中学科の錘秀学校が創設され、入学する。

1879(明治12)年
 新設された和歌山中学校(現・桐蔭高校)に入学したが、授業より読書に熱中し、『前太平記』(4巻)、『経済録』をどを次々と筆写していった。

1880(明治13)年
 自作の教科書『動物学』を作成する。

1882(明治15)年
 春、父母、弟らと高野山に登り、大和の立里荒神社まで足をのばした。

1883(明治16)年
  3月、和歌山中学校を卒業し、上京して神田の共立学校に入学する。

1884(明治17)年
 9月、大学予備門(現・東京大学)に入学する。同教生に夏目漱石、正岡子規、山田美妙、秋山真之らがいた。
 12月、読者ノート「課余随筆」の筆写を始める。

1885(明治18)年
 4月、鎌倉・江ノ島に遊び魚介類の標本を得た。「江島記行」がある。
 7月、日光に遊び動植物の標本を得た。「日光山記行」がある。
 この年、授業にほとんど出なかったため、12月に落第が決まった。

1886(明治19)年
 2月「疾ヲ脳漿に感ずるをもって」予備門を退学、帰郷。
 10月、米国遊学を許され上京。
 12月、横浜からシティ・オブ・ペキン号に乗船した。

1887(明治20)年
 1月、サンフランシスコに上陸、同地のパシフィック・ビジネス・カレッジに入学。
 8月、ランシング(正確にはイースト・ランシング市)のミシガン州立農学校に移った。

1888(明治21)年
 11月、農学校を退学、アナーバーに移り、以後同地に滞在、動植物の観察と読書に励む。

1889(明治22)年
 留学生仲間と回覧新聞「大日本」や「珍事評論」を発行し交友交歓する。
 10月、この頃読んだスイスの博物学者ゲスナーの伝記に感銘を受ける。
 12月、和歌山では父と弟常楠が共同して清酒の醸造を始める。

1891(明治24)年
 4月、アナーバを出発、フロリダに向かい、ジャクソンヴイル、キューバなど各地に地衣類や粘菌を調査、この時採集した地衣類の一種は新種と認定された。※日記でたどるキューバ以外の中南米に行った記録はない。

1892(明治25)年
 8月、父弥右衛門死去(63歳)。
 9月、ニューヨークからロンドンに渡り、父の訃を知った。

1893(明治26)年
 9月、大英博物館古物学部長A・W・フランクス、同副部長C・H・リードに面会、以後東洋関係の文物の整理を助け、利用の便を得た。
 10月、週刊科学誌『ネイチャー』に「東洋の星座」を発表、以後数多くの論考を投じた。滞英中の土宜法龍と会い親交を結ぶ。

1895(明治28)年
 4月、これまでの読書ノートのほか、新たに「ロンドン抜書」と呼ばれる欧文文脈の筆写を始めた。ノートは帰国まで52冊となった。

1896(明治29)年
 2月、母すみ死去(58歳)。

1897(明治30)年
 3月、大英博物館東洋図書部長R・ダグラスの紹介で孫文と会い、以後親交を結ぶ。
 11月、大英博物館図書館で殴打事件を起こし、二週間利用を停止される。

1899(明治32)年
  前年末、大英博物館内で女性の高声を制したことから紛争が起こり、館内の利用が制限されたため、自然史博物館及びヴィクトリア・アンド・アルバールト博物館に通い読書する。
  6月、『ノーツ・アンド・クエリーズ』 にも寄稿を始めた。

1900(明治33)年
  生活の窮迫から9月1日、帰国の途につく。
 10月15日、神戸に上陸、常楠に迎えられ和歌山市に帰る。

1901(明治34)年
 2月、孫文が和歌山に来訪、歓談する
 10月、弟の開いた酒造会社の勝浦支店を頼って熊野入りし、以後3年ほど那智山周辺の隠花植物を調査する。

1904(明治37)年
 7月、『東洋学芸雑誌』 へ 「ホトトギスについて」ほか二編を寄稿、以後しばしば同誌へ寄稿する。国内の雑誌に寄稿する最初である。
 9月、熊野那智方面の調査を打ち切る。
 10月、喜多幅武三郎を頼って田辺へ。

1906(明治39)年
 7月、田辺闘鶏神社宮司の四女田村松枝と結婚。

1907(明治40)年
 2月、闘鶏社所蔵の漢籍を借り筆写を始める。以後晩年までの筆写ノート「田辺抜書」は61冊を成した。
 6月、長男熊弥誕生。

1908(明治41)年
 6月、栗栖川村水上(現、田辺市)の原生林を調査。
 9月、『東京人類学雑誌』 へ 「涅槃について」を発表、以後同誌へしばしば寄稿する。
 11月、大和・十津川村方面植物調査行。

1909(明治42)年
 1月、田辺町内で発行の『海南時報』に「鶏の話」を掲載、地元紙への寄稿のはじめとなる。
 9月、神社の合祀と神林伐採の進行に反対する意見を「牟婁新報」に発表。

1910(明治43)年
 8月、神社統合を推進する県吏に面会を求め講習会場に乱入、家宅侵入の容疑で拘引される。
 9月、『牟婁新報』掲載の「人魚の話」が風俗壊乱に問われる。
 11月、植物調査のため兵生村(現、田辺市中辺路町兵生)に入り製板工場の山小屋に約40日間過ごす。

1911(明治44)年
 3月、柳田国男より来信、以後文通を重ねる。
 9月、松村任三宛熊楠書簡二通が、柳田の手で「南方二書」として刊行、識者に配布された。
 10月、長女文枝誕生。

1912(明治45)年
 1月、雑誌『太陽』に「猫一疋の力に憑つて大富となりし人の話」を発表、以後しばしば同誌に寄稿する。

1914(大正3)年
 1月、『太陽』へ「虎に関する民俗と伝統」を発表、以後大正12年まで毎年の干支に関する論考を寄稿。いわゆる「十二支考」である。

1916(大正5)年
 4月、常楠の出資で田辺町中屋敷36番地に宅地建物を購入、終生この家に住む。
 7月、日記に「庭上の柿の生樹の皮に付る」変形菌を採集し「少量にて異品なり」と記す。ミナカテラ・ロンギフィラと思われる。

1918(大正7)年
 3月、神社合祀令が廃止される。

1920(大正9)年
 8月下旬、小畔四郎、川島友吉(草堂)らを伴い高野山へ植物調査に登り一乗院に滞在、管長土宜法龍ともロンドン時代の旧交を温めた。

1921(大正10)年
 1月、G・リスターより先年自宅の柿の木より発見の粘菌が新種として新たに一属を設け、ミナカテラ・ロンギフィラと命名したと知らせを受ける。 (ロンドン自然史博物館のタイプ標本日付は1918年8月24日)
 3月、隣家の建替えで研究園の日照が遮られることから争いとなる。
 4月、熊楠の研究を後援するため南方植物研究所が開設されることになる。
 6月、研究所開設の募金開始。
 11月、高野山の植物調査に楠本秀男(龍仙)を伴って再度登山、一乗院に約一カ月滞在した。

1922(大正11)年
 この年、思うところがあって酒を断った。

1925(大正14)年
 2月、研究資金募集のため矢吹義夫の求めに応じ長文の「履歴書」を認めた。
 3月、高等学校受験のため高知に向かった長男熊弥が同地で発病し、いったん和歌浦精神病院に入院したがほどなく退院、自宅療養に移る。

1926(大正15、昭和元)年
 2月、坂本書店より最初の著作集『南方閑話』を刊行。
 5月、続いて岡書院より『南方随筆』が刊行された。
 11月、門人小畔四郎らと協力して粘菌標本90点を摂政宮に進献、『続南方随筆』を岡書院より刊行した。

1928(昭和3)年
 5月、熊弥を京都の岩倉病院に入院させる。
 10月、門弟上松蓊を伴い日高部川又・妹尾国有林に入り、熊楠のみ残留、越年して冬季発生の菌、粘菌を調査する。

1929(昭和4)年
 6月、南紀行幸の昭和天皇に進講し、粘菌標本110点を進献する。

1930(昭和5)年
 5月、長年保護につとめてきた神島が県の天然記念物に指定される。
 6月、行幸一周年に当たり同島に熊楠自詠自筆の和歌を刻した行幸記念碑の除幕式典開催。

1932(昭和7)年
 11月、小畔四郎と協力、粘菌標本30点を進献。

1935(昭和10)年
 12月、神島が文部省より史蹟名勝天然記念物に指定される。

1938(昭和13)年
 7月、邸内の竹林で菌類を調査中に負傷し、以後健康がすぐれず、来訪者を謝絶することも多かった。
 12月、盟友毛利清雅死去(67歳)。

1941(昭和16)年
 3月、喜多幅武三郎死去(75歳)。
 11月6日、郵着したばかりの『今昔物語』に署名し、文枝に形見として与える。
 12月に入ると萎縮腎で臥し、やがて黄疸を併発する。29日午前6時30分永眠。同夜12時より保田龍門がデスマスクをとり、翌30日、脳解剖。
 同月31日、告別式後、田辺郊外高山寺に葬られる。戒名は智荘厳院鑁覚顕真居士。※高山寺境内図

 

◎リンク
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南方熊楠顕彰会
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南方熊楠ゆかりの地

 

※注意
所蔵元の記載がない画像は、南方熊楠顕彰館所蔵資料です。
熊楠は、伝説的な部分が多い人物です。古い文献になればなるほど「伝説的」ですので、編集の際はなるべく新しい文献に依ってください。
例えば、
学校をさぼって野山を駆け回っていたから「てんぎゃん(てんぐ)」と呼ばれたのではありません。
中南米、西インド諸島を周ったという事実はありません。
サーカス団に入ったという事実はありません。
ロンドンで収監中の孫文を助けたという事実はありません。
キューバ独立革命に参加したという事実もありません。
外国語は18カ国語も話せません。